日本が降伏文書に署名(昭和20年 1945年9月2日)
昭和20年(1945年)9月2日、第二次世界大戦の終戦を同年8月15日に表明した日本とアメリカ合衆国を中心とする連合国との間で降伏文書が調印されました。これにより休戦協定(停戦協定)が結ばれポツダム宣言の受諾と日本の降伏が外交文書において確定されました。
調印は東京湾に停泊中のアメリカ合衆国海軍の戦艦ミズーリの甲板で行われました。調印式は同日午前9時から執り行われました。最初に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが演説を行いました。日本からは天皇および大日本帝国政府の代表として重光葵外務大臣が、大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が降伏文書に署名しました。連合国からはマッカーサーをはじめとする各国代表が署名を行いました。
このときミズーリの甲板で掲げられた国旗はアメリカ合衆国のものだけでしたが、当時の国旗である48州の星条旗とは別に31州の星条旗の2つの国旗が掲げられました。31州の星条旗は嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが黒船来航で日本に開国を要求した当時の星条旗でした。またミズーリが停泊した位置も嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させてたのと同じ位置でした。この黒船来航に合わせた演出はマッカーサーによるものとされています。
日本が実質的にポツダム宣言を受け入れたのは同年8月14日で翌日の8月15日に昭和天皇が大東亜戦争終結ノ詔書を自ら読み上げた玉音放送により全国民に日本が戦争に負け降伏したことが伝えられました。8月いっぱいは小競り合いが続いた地域もありましたが日本が軍に停戦命令を出したの翌8月16日です。この経緯から日本では8月15日が戦争に負けたことを認め降伏することを決断した終戦記念日とされています。
日本は終戦を迎えるにあたり日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦を仲介役として和平交渉を進める外国工作をしていましたが、アメリカ合衆国はソ連といち早く交渉を行いヤルタ会談においてソ連に対して千島列島の領有を認める代わりに対日参戦を確約させました。アメリカ合衆国はソ連に対して日本を攻撃するための軍事訓練と戦艦などを無償提供する極秘軍事作戦「プロジェクト・フラ」を開始しました。この作戦により軍事力を強化したソ連は日ソ中立条約を一歩的に破棄し同年8月8日に日本対して戦線布告しました。ソ連は同年9月2日の降伏調印をした後も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞を支配下に置いた9月5日に停戦しました。
ヤルタ会談で連合国側がソ連に領有を許可した千島列島の範囲には択捉、国後、色丹、歯舞は含まれないというのが日本の主張であり現在も北方領土問題が解決されないままになっています。また玉音放送後の停戦以降も侵攻を続けたソ連とその侵攻で北方領土を占領されたため、9月2日を終戦の日と認めるわけにはいかないというのが日本の立場です。ソ連は「終戦後」の9月5日まで侵攻を続けたのです。
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