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2025年9月12日 (金)

仙台藩が降伏し奥羽越列藩同盟が消滅(慶応4年 1868年9月12日)

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第1話 榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)

第2話 榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

 新政府軍の攻撃により奥羽列藩同盟は壊滅状態にあった。多くの旧幕府軍、藩兵は奥羽越列藩同盟盟主の輪王寺宮(北白川宮能久親王)が身を寄せていた仙台藩に終結していた。仙台藩はほとんど無傷ではあったが慶応4年 (1868年)8月11日の「旗巻峠の戦い」で大敗し新政府軍に領内への侵入を許していた。新政府軍に対して武器の性能や量が劣る仙台藩では降伏論が高まり藩政が混乱した。

【参考記事】奥羽越列藩同盟が成立(1868年5月6日)

羽越列藩同盟旗と輪王寺宮公現入道親王輪王寺宮(北白川宮能久親王)
羽越列藩同盟旗と輪王寺宮公現入道親王輪王寺宮(北白川宮能久親王)

 会津若松城は新政府軍に包囲され、庄内藩につづいて米沢藩も軍議の翌日の同年9月4日に降伏した。仙台藩主の伊達慶邦は幕政から主戦派を排除し恭順へと向かい同年9月12日に降伏した。仙台藩降伏の通知を受けた榎本武揚と土方歳三は降伏を撤回するよう求めたが仙台藩は受け入れなかった。

伊達慶邦
伊達慶邦

 仙台藩の降伏について武揚は「今の王政復古は全く薩長の策士らが幕府を倒す道具として拵(こしら)えたもの。 政権を盗むの手段にすぎず」(現在の王政復古は薩摩・長州の策略家たちが幕府を倒すための道具として作り上げたものにすぎない。単に政権を奪い取るための手段だ)と酷評した。歳三は「利不利は暫く措(お)き、弟をもって兄を討ち、臣をもって君を征す・・・武士の道を解し聖人の教えを知る者は 薩長の徒に与すべからずと信ず」(利害や損得はひとまず置いておこう。弟に兄を討たせ家臣に主君を征伐させるようなことは武士の道を理解し儒教の教えを知る者であれば薩摩や長州の連中に加担することはできないと私は信じる」と非難した。

 仙台が戦場と化すことを避けるため降伏した仙台藩は旧幕府軍をやっかいものと考えるようになり、豪商の毛利屋理兵衛に物資などを支援するよう依頼し仙台から出て行くよう仕向けたのである。幕府から借りていた「太江丸」「鳳凰丸」および薪水や食料を榎本艦隊に提供した。

 新政府軍が仙台城に入城すると同年10月9日に榎本艦隊は桑名藩主の松平定敬、大鳥圭介、土方歳三、伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した星純太郎が率いる額兵隊など合計3000人を収容し石巻に向かった。仙台藩の降伏により終結していた旧幕府軍、藩兵は行き場を失った。武揚は兼ねてより構想していた蝦夷地へ渡航を提案した。このとき蝦夷地の防衛と開拓のために蝦夷地に向かう嘆願書を提出している。

仙台を後にする榎本艦隊
仙台を後にする榎本艦隊

 榎本艦隊は同年10月12日、蝦夷地に向けて石巻を出港した。途中で海賊行為していた幕府の輸送船「千秋丸」(のちの「回春丸」)を拿捕し、宮古湾で補給を行ったのち蝦夷地へと向かったのである。

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