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2025年8月21日 (木)

生麦事件(文久2年 1862年8月21日)

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島津久光の上洛と文久の改革 

 文久2年(1862年)、薩摩藩主の島津茂久の父の島津久光は江戸幕府が進めていた公武合体を朝廷に働きかけるため兵を率いて上京した。このとき在京の尊皇攘夷派の薩摩藩士たちは久光の上京を機に挙兵倒幕を企てた。公武合体派の久光は同年4月23日、伏見の寺田屋に集結した彼らを上意討ちし粛清した。これが寺田屋事件(寺田屋騒動)である。

 【参考記事】寺田屋事件こと薩摩藩志士粛清事件(1862年4月23日)

  ※坂本龍馬が襲われたのは寺田屋遭難で別の事件である

 【参考記事】坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

島津久光(原田直次郎筆、尚古集成館蔵)
島津久光(原田直次郎筆、尚古集成館蔵)

 朝廷は久光の働きかけに応じ幕政改革を要求する勅使を江戸に派遣することを決め久光に随従を命じた。同年5月21日、久光は勅使の大原重徳に随従しおよそ700人の軍勢を率いて江戸に向けて出発した。6月7日に江戸に到着すると幕府と交渉し、徳川慶喜を将軍後見職、9日に松平春嶽を政事総裁職に就任させた。これが文久の改革である。交渉後、久光は8月21日に大原より1日早くおよそ400人の軍勢を率いて江戸を出発し京都へ向かった。

生麦事件の発生 

 同日八つ時頃(午後2時頃)、大名行列の久光一行が神奈川宿近くの武蔵国橘樹郡生麦村に差し掛かったところで外国人4人が乗る馬と出くわした。4人は横浜でアメリカ人の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、観光で来日していた香港在住商人トマス・ボルディオの夫人マーガレット・ボラディル、同じく観光で来日していた上海在住の商人チャールズ・レノックス・リチャードソンでいずれもイギリス人だった。

 大名行列の先頭の薩摩藩士らは4人に対し下馬して道を譲るよう身振り手振りで命じた。道を開けろと命じられたと思い込んだ4人は下馬せず、また行列が道いっぱいに広がっていたため道を開けることができずそのまま進みました。4人は警告を受けながらも行列を割って馬を進め、ついに久光の乗る駕籠の近くに到達した。ここで4人は異様な雰囲気に気がつき引き返そうと行列の中で馬を転回させた。この無礼な対応に薩摩藩士らが無礼打ちとして抜刀し斬りかかったのである。余談であるがこのとき現場に居合わせた黒田清隆は抜刀しようとした藩士らを止めたと伝えられている。

生麦之発殺(早川松山画、明治10年1877年)
生麦之発殺(早川松山画、明治10年1877年)

 驚いた4人はその場から逃げようとしたが、深手を負い瀕死となったリチャードソンは落馬したところで介錯された。同じく深手を負ったマーシャルとクラークはマーガレットに逃げるように伝えた。マーガレットは馬を飛ばして無傷で横浜居留地へ逃げ戻り助けを求めた。マーシャルとクラークもアメリカ領事館のある本覚寺に逃げ込み助けを求めた。イギリス人1名を殺害し2名に重傷を負わせたこの事件は後に生麦事件と呼ばれるようになる。

生麦村の事件現場近く
生麦村の事件現場近く

イギリスの幕府への対応 

 久光一行は同年閏8月6日に京都に到着、9日に朝廷に幕政改革を報告し、23日に京都を出発、9月7日に鹿児島に帰着した。 文久3年(1863年)早々、イギリス政府は生麦事件に対して幕府に強く抗議し謝罪と賠償金10万ポンドの支払いを求めた。薩摩藩が幕府の統制下にないことっを知るとイギリスは艦隊を鹿児島に派遣し薩摩藩に犯人の処罰と賠償金2万5千ポンドの支払いを要求した。

 イギリスは幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけた。これにより横浜港に四カ国の軍艦が入港しました。このとき第12代将軍の徳川家茂は上洛中のため在京していた老中の小笠原長行に江戸に戻り諸外国と交渉することを命じた。賠償金の支払いの可否は紛糾したが、支払いに応じない幕府に対してイギリスは軍事行動も辞さない姿勢を示した。最終的には長行が独断で支払いを実行したことによりイギリスは矛を収めたが、長行は老中を罷免された。この横浜港への四カ国の軍艦を攘夷するため横浜に戻ったのが将軍家茂を警護するため京都に赴いていた清河八郎が率いる壬生浪士組 である。将軍警護を差し置いて攘夷を行おうとした八郎に反発し京都に残ったのが近藤勇、芹沢鴨、土方歳三らで彼らは後に新選組となった。

 【参考記事】新撰組の日(1863年3月13日)

イギリスの薩摩藩への対応と薩英戦争 

 イギリスは幕府との交渉後、文久3年(1863年)6月27日に鹿児島に軍艦7隻を派遣し薩摩藩との交渉を行いました。交渉が暗礁に乗り上げたことからイギリスは同年7月2日に薩摩藩船を拿捕した。これに対して薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃したことから戦闘が始まった。これが薩英戦争である。この戦闘により鹿児島は大きな被害を受けた。イギリス艦隊の被害も大きく鹿児島港を出たことから薩英戦争は終結した。

薩英戦争
薩英戦争

 薩摩藩は薩英戦争を通じてイギリスの圧倒的な軍事力を目の当たりにした。日本の軍事力では列強に太刀打ちできないと考えた薩摩藩は攘夷から開国へと方針を転じたのである。

 同年10月5日、イギリスの公使館にてイギリスと薩摩藩は講話条約が成立した。薩摩藩は賠償金2万5000ポンド(6万300両)をイギリスに支払ったが、加害者の処罰は逃走中とし行われなかった。6万300両は江戸幕府が薩摩藩に海岸防禦費として貸し付けたものであるが、イギリスは薩摩藩を高く評価し、それ以降はお互いに関係を深めていくことになった。薩摩藩はイギリスから武器を購入し軍事力を高めたのである。

 生麦事件は開国か攘夷かという思想的な問題を背景に重大な外交問題へと発展しましたが単なる外交衝突にとどまらず倒幕と新政府樹立に繋がる日本の歴史に多大な影響を及ぼすことになったのである。

 

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