水戸藩主の徳川斉昭が蟄居となる(安政6年 1859年8月27日)
徳川御三家常陸国水戸藩の第9代藩主の徳川斉昭は幼少の頃から水戸学の影響を受け強い尊皇攘夷思想を持っていました。天保8年(1837年)頃から藩政改革を進めましたが改革の内容が厳しかったため藩内で不満が高まりました。また幕府の許可を得ずに藩政を進めたり、将軍に直接意見を述べたりするなどの行動が目立ちました。改革派の老中首座の水野忠邦が失脚すると反改革派が台頭、弘化元年(1844年)に幕府は水戸藩の混乱も踏まえ斉昭の行動を越権とし家督を嫡男の徳川慶篤に譲らせた上で隠居を命じました。
忠邦を失脚させて老中首座となった土井利位は同年の火災により焼失した江戸城本丸の再建費用を工面することができず第12代将軍の徳川家慶の反感を買い老中首座を失脚させられました。家慶は忠邦を老中首座に再任したのです。弘化2年(1845年)、老中の阿部正弘はこの人事に強硬に反対し、天保改革時代に起きた事件への関与を理由に忠邦を隠居させ家督を長男の水野忠精に譲らせました。この間、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握っていましたが、寅寿の犯罪の証拠を掴んだ斉昭は寅寿を失脚させ処刑させることに成功しました。これにより水戸藩では改革派が再び台頭することになり、斉昭は弘化3年(1846年)には謹慎を解かれ嘉永2年(1849年)から再び藩政に関与するようになりました。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が率いる黒船が浦賀に来航にすると老中首座の阿部正弘は斉昭を海防参与に任命しました。幕政に関わるようになった斉昭は強硬な攘夷論を主張し、江戸防備のため74門の大砲と弾薬、洋式軍艦「旭日丸」を幕府に献上しています。
【参考記事】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)
安政2年(1855年)、正弘は譜代大名を中心とする幕政から雄藩藩主と連携する幕政を執るようになりました。斉昭は軍制改革参与の座につきましたが、開国派の彦根藩主の井伊直弼と対立するようになりました。安政4年(1857年)に阿部正弘が死没すると開国派の堀田正睦が老中首座となり、攘夷派の斉昭は対立しました。
第13代将軍の徳川家定の後継問題が起きると斉昭は実子の一橋慶喜を推挙しましたが直弼は血統を重視し紀州藩主の徳川慶福を推挙しました。これにより斉昭を中心とする一橋派と直弼を中心とする南紀派が将軍後継問題で対立することなりましました。安政5年(1858年)大老の座についた直弼は朝廷の許可を得ること無く日米修好通商条約を締結し、慶福に徳川家茂と名乗らせ第14代将軍に就任させました。
【参考記事】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)
直弼の独断に激怒した斉昭は水戸藩主らとともに江戸城に無断登城し直弼を詰問しました。直弼は無断登城を理由に斉昭を水戸藩江戸屋敷で謹慎を命じ失脚させました。朝廷の攘夷派は無断で日米修好通商宇条約を締結した幕府を問題視し、安政5年(1858年)8月8日に幕政改革を命じる勅書を幕府を通さず水戸藩に直接下賜しました。この戊午の密勅に激怒した直弼は安政6年(1859年)8月27日に斉昭の永蟄居を命じました。
【参考記事】戊午の密勅(1858年8月8日)
斉昭は水戸に移り事実上は政治生命を絶たれることになりました。直弼は斉昭の他にも多くの一橋派の有力者を粛正しました。これが安政の大獄です。斉昭の蟄居をきっかけとして水戸藩の尊王攘夷派の志士たちを刺激しました。、安政7年(1860年)3月3日、直弼は水戸浪士らにより「桜田門外の変」で暗殺されたのです。以降、攘夷論は天皇や皇室を政治の中心とするべきという考えの尊王論と結びつけられ倒幕派による尊皇攘夷運動が起こり幕政の混乱がはじまったのです。
【参考記事】第7話「混乱する幕政」|明日なき戦いの果てに
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