« 生麦事件(文久2年 1862年8月21日) | トップページ | 水戸藩主の徳川斉昭が蟄居となる(安政6年 1859年8月27日) »

2025年8月26日 (火)

四稜郭|箱館を見渡すことができた台場

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む


 四稜郭(しりょうかく)は北海道函館市の五稜郭の北東約3.5 kmの陣川町に位置する稜堡式の台場です。五稜郭があるところよりも約80 m高い場所にあり、七重浜、大森浜、函館港、函館山まで見渡すことができました。箱館戦争の明治2年(1869年)に榎本武揚が率いる旧幕府軍によって五稜郭の支城として亀田山地の麓に広がる舌状台地に建造されたものです。当時、四稜郭の手前の上山村には北海道東照宮があり、東照宮を守護するためのものでもありました。なお東照宮にも台場が設置され権現台場と呼ばれました。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

 四稜郭は旧幕府軍の約200名と地元住民約100名が動員され昼夜を問わず突貫工事で数日で急造されたと伝えられています。設計はジュール・ブリュネ、建造の指揮は大鳥圭介が率いていた工兵隊が執ったと考えられています。四稜郭は四つの稜堡を持つ構造で蝶が羽を広げたような形をしており、東西約104m、南北約66mの範囲に、幅5.4m・高さ3mの土塁が築かれ、周囲には幅2.7m・深さ0.9mの空堀が巡らされています。

四稜郭
四稜郭

 内部には建物は建造されず砲台と銃兵足場が設けられた簡単な施設でした。

四稜郭の土塁と砲台(奥の坂になった部分)
四稜郭の土塁と砲台(奥の坂になった部分)

 同年5月11日、新政府軍による箱館総攻撃が始まると新政府軍の岡山藩・福山藩・水戸藩・徳山藩が四稜郭の攻撃を開始しました。松岡四郎次郎が率いる一聯隊が応戦しましたが北側の緩斜面からの攻撃で防衛戦が破られました。権現台場が陥落すると退路を断たれることを恐れ五稜郭へ撤退しました。

 現在、四稜郭は国指定史跡として整備され土塁や空堀が復元されています。入り口には碑と案内版が設置されています。

史跡四稜郭の碑
史跡四稜郭の碑

史跡四稜郭案内版
"史跡四稜郭案内版

 大鳥圭介の案内版には四稜郭、ジュール・ブリュネ、フランス軍事顧問団について開設されています。

四稜郭の大鳥圭介の案内版
四稜郭の大鳥圭介の案内版

 現在は四稜郭の下方には林が広がっており当時のように箱館市街を見通すことはできません。近くの開けたところは確かに市街がよく見えます。五稜郭の箱館奉行所の太鼓櫓は16.5メートルの高さがありましたら四稜角から見える五稜郭は目立っていたと思われます。また太鼓櫓から四稜郭も良く見えたことでしょう。観光地としては五稜郭のように有名ではありませんが箱館戦争に興味がある人は訪れることをお奨めします。

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| |

« 生麦事件(文久2年 1862年8月21日) | トップページ | 水戸藩主の徳川斉昭が蟄居となる(安政6年 1859年8月27日) »

函館の話」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

幕末・明治」カテゴリの記事

箱館戦争・戊辰戦争」カテゴリの記事

史跡」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 生麦事件(文久2年 1862年8月21日) | トップページ | 水戸藩主の徳川斉昭が蟄居となる(安政6年 1859年8月27日) »