高杉晋作の誕生日(天保10年 1839年8月20日)
高杉晋作は長州藩士の高杉小忠太の長男として天保10年(1839年)8月20日に生まれ春風と名付けられました。高杉氏は戦国時代から幕末にわたり毛利氏に仕えた武家です。江戸時代末期に尊皇攘夷の志士として活躍しました。晋作は通称ですが高杉晋作以外にも多くの変名を名乗りました。
嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学し柳生新陰流剣術を学びました。安政4年(1857年)、18歳になった晋作は吉田松陰の松下村塾に入門し松陰が唱えた革命思想「草莽崛起」の影響を受けました。松下村塾の高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一は松下村塾四天王と呼ばれました。
安政5年(1858年)に藩命で江戸へ遊学し昌平坂学問所などで学びました。安政6年(1859年)に江戸幕府大老の井伊直弼が行った弾圧「安政の大獄」で松蔭が伝馬町牢屋敷投獄されると晋作は牢屋敷を訪れて松蔭の世話をしましたが、松蔭は評定所で老中暗殺計画を告白したため同年10月に処刑されました。
松陰の死後、多くの志士たちが尊皇攘夷運動に身を投じましたが晋作は行動を起こしませんでした。晋作は玄瑞に自分の思いを綴った手紙を送っています。その手紙には父から尊皇攘夷運動に参加することを戒められており背けば不幸になると書いてありました。高杉家の嫡男の晋作は親への孝行心から尊皇攘夷運動を断念していたのです。その後、晋作は父のすすめで結婚しています。
文久元年(1861年)に海軍修練のため再び江戸に留学しました。翌年には藩命で幕府使節随行員として千歳丸で清(中国)の上海に2ヶ月間留学し植民地化されつつある清の現状や1851年に起きた太平天国の乱を見聞しました。この上京を目にした晋作は幕府に日本を任せていては清と同じようになると倒幕を考えるようになりました。
晋作が清から戻ると長州藩は尊皇攘夷派が主流となっていました。晋作は桂小五郎(木戸孝允)らと江戸や京都で尊皇攘夷運動を進め諸藩の同士たちと交流を深めました。文久2年(1862年)、晋作は仲間とともに武州金澤(金沢八景)で遊ぶ外国公使を攘夷する計画を立てますが情報が漏れて藩に謹慎処分とされました。
謹慎中に同志たちとた尊王攘夷結社「御楯組」結成を決意しました。同年末、「御楯組」は品川御殿山で英国公使館焼き討ち事件を起こしました。幕府は長州藩関係者が犯人であることを突き止めましたが処罰は行いませんでした。その後、晋作は藩から京都に呼び出され朝廷との交渉役を命じられましたがこれを辞退し10年間の暇を願い出ました。承認されると頭を丸めて吉田松陰が生まれた松本村で暮らしました。
文久3年(1863年)、長州藩は関門海峡において外国船を砲撃し攘夷を行いましたが、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との馬関戦争(下関戦争)に発展し惨敗しました。このとき晋作は呼び出され下関の防衛を任されました。志願兵を募り騎兵隊を結成しました。しかし、騎兵隊と長州藩の正規軍部隊の撰鋒隊の間で軋轢が生じ、騎兵隊が撰鋒隊の隊士を殺害する教法寺事件が起こりました。晋作はこの事件の責任を問われて罷免されました。同年に京都で起きた八月十八日の政変で長州藩が薩摩藩と会津藩により追放されると、翌年に晋作は脱藩し京都に赴きます。桂小五郎の説得で長州に戻りましたが脱藩の罪で投獄され出所後も謹慎処分となります。元治元年7月19日、長州藩は禁門の変を起こし朝敵とされます。
元治元年(1864年)8月、関門海峡を封鎖していた長州藩に対して四国連合艦隊が攻撃を仕掛けました。下関の砲台が占拠されると長州藩は晋作に和議の交渉を命じました。この交渉で四国連合は長州藩に対して賠償金の支払いと彦島の租借を求めてきましたが、晋作は賠償金は幕府に支払うものであると主張しました。上海で清が植民地化された様子を見ていた晋作は彦島の租借を了承せず古事記を暗唱して誤魔化し話をうやむやにしたと伝えられています。このとき通訳を担当したのが伊藤博文です。
幕府は朝敵とした長州藩に対して第一次長州征討を計画しました。長州藩は幕府への恭順を主張する勢力が台頭したため晋作は福岡に逃れます。しかし、尊皇攘夷の家老が殺害されると下関に戻り長州藩の同士とともに挙兵して恭順派を破り藩政の実権を握ります。第一次長州征討で長州藩は敗北しましたが第二次次長州征討にて勝利しました。長州征討で晋作は目立った戦果はありまえんでしたが事前に進めていた薩長同盟が長州藩の勝利と慶応3年(1867年)11月の大政奉還へとつながりました。
晋作は第二次長州征討後に肺結核となり療養しましたが慶応3年(1867年)4月13日に享年29(満27歳8ヶ月)で死去しました。晋作は短い生涯の中で多くの功績を残し、新しい時代の扉を開くきっかけを作った一人です。
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