高田屋嘉兵衛が択捉島と国後島の航路を開拓(寛政11年 1779年7月29日)
高田屋嘉兵衛は江戸時代後期に活躍した廻船業者で海商です。淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)で生まれた高田屋嘉兵衛は寛政2年(1790年)にに兵庫箇の叔父の堺屋喜兵衛が経営する廻船問屋に奉公に出ました。淡路で船乗りの経験をした嘉兵衛は操船で頭角を現し重要な仕事を任されるようになりました。寛政8年(1796年)には当時としては最大級の千五百石積(約230トン)の北前船「辰悦丸」を入手しました。
寛政9年(1796年)、嘉兵衛は堺屋喜兵衛のもとで働いていた弟の高田屋金兵衛と商売を広げるため蝦夷地へ赴きました。当時の蝦夷地は松前藩が利権を確保していたため松前城下では仕事を得ることができなかったため寛政10年(1798年)に未開発開だった箱館を拠点としました。嘉兵衛は「辰悦丸」で兵庫津、出羽国酒田、箱館で各地の特産物を販売する商売を行いました。
蝦夷地周辺の海域が豊かな漁場であることに注目した嘉兵衛は箱館以外の地域にも進出しました。寛政11年(1799年)に厚岸に滞在していたたところ幕臣で松前蝦夷地御用取扱の任に就いていた近藤重蔵に国後島と択捉島間の航路開拓を依頼されましたした。しかしながら択捉島と国後島の航路は荒天や座礁の危険が高く安全な航路を開拓するのは極めて困難でした。嘉兵衛は択捉島と国後島の海域の潮流を調べ水深の測定や停泊地の調査を行い寛政11年(1779年)7月29日に択捉島と国後島の航路を開拓に成功しました。
嘉兵衛の航路開拓により択捉島や国後島の往来が容易になり昆布や鮭などの水産資源を安定して本土に供給できるようになりました。高田屋嘉兵衛は北方領土における航路開拓で大きな貢献を果たしました。この航路開拓により日本の北方地域における漁業や通商の発展の追い風となりました。嘉兵衛自身も寛政12年(1800年)に択捉島で漁場を開き拠点を作りました。航路開拓の功績により嘉兵衛は大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ蝦夷地の漁場を次々に開拓し豪商となりました。
嘉兵衛の北方の航路開拓は蝦夷地への入植やさらなる開拓を後押し日本の北方地域における実効支配の強化に繋がりました。 嘉兵衛の活動は北方領域に強い関心を持っていたロシアとの関係にも影響を与えました。文化7年(1810年)に起きた「ゴローニン事件」で嘉兵衛はロシアに捕縛されましたがロシア側と交渉し外国問題となっていた事件を解決に導きました。
【参考記事】松前藩がゴローニンを捕縛|ゴローニン事件(1811年6月4日)
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