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2025年7月10日 (木)

日蘭修好通商条約の調印(安政5年 1858年7月10日)

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 安政5年7月10日(1858年8月18日)、江戸幕府とオランダの間で日蘭修好通商条約が調印されました。調印は江戸で行われ日本側は永井尚志、岡部長常、岩瀬忠震、オランダ側の調印者は最後のオランダ商館長で初代総領事を努めたヤン・ドンケル・クルティウスが署名しました。

オランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウス
オランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウス

 この条約は幕府が幕末に列強5ヵ国と結んだ安政五カ国条約のひとつです。アメリカ、ロシア、イギリス、フランスに続いて最後に締結されたものですが、日本は徳川家康の時代からオランダと通商関係を結んでいました。オランダは慶長14年(1609年)の平戸商館設置以来、西洋の国としては日本と唯一交易を許された国として、交易だけではなく学術、医療、技術などの交流を続けてきました。しかしながら、幕府側には条約の締結という考えはなく、日蘭和親条約が結ばれたのは日米和親条約締結(嘉永7年(1854年)3月3日)より後の安政2年(1856年)12月23日でした。米国が日米和親条約より充実した内容の日米追加条約を結ぶとオランダも日蘭追加条約を結ぶなど日本とオランダの条約締結は後手に回っていたのです。

 【参考】日蘭和親条約締結(1855年12月23日)

 日蘭修好通商条約の内容は他の五カ国との修好通商条約と同様の内容で、この条約締結によりオランダは日本における通商上の特権を獲得することが可能となりました。これは日本とオランダの特殊な関係が解消され他国と同様の通商関係となったことを意味しています。この条約によってシーボルト事件におけるシーボルトの処分が免責され、シーボルトは再来日を果たすことができました。

 日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国の条約は日本の近代化を進めるきっかけとなりましたが、不平等な内容が強い反発を生み後に尊王攘夷運動や明治維新に繋がる要因のひとつとなりました。尊王攘夷運動でもオランダ人が外国人襲撃事件の被害者となったり、オランダ軍が長州藩による攘夷実行によって武力衝突に巻き込まれたりすることはありましたが、オランダが直接的な標的とされることはほとんどありませんでした。幕府もオランダと古くから外交していたこともありオランダと直接的な紛争は起こしませんでした。

 

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