第二次長州征討(慶応2年 1866年6月7日)
文久3年(1863年)8月、「八月十八日の政変」において強硬な尊皇攘夷派の長州藩勢力や公家が薩摩藩と会津藩によって京都から追放されました。元治元年(1864年)7月、長州藩勢力が会津藩勢力を排除しようと「禁門の変(蛤御門の変)」を起こすと長州藩は朝敵とされ、幕府は慶応元年(1865年)5月に第一次長州征討を行いました。薩摩藩が参戦したこともあり長州藩は降伏し敗北しました。
【参考】禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)
第一次長州征討では長州藩の降伏により大規模な戦闘は起こりませんでした。朝敵となった長州藩は武器の購入などが禁止されましたが、高杉晋作をはじめとする倒幕派が再起を図りはじめました。幕府側ではこれまでの徳川家を中心とする封建的な幕政から脱却し合議制とする話し合いが進めらていましたが折り合いがつかず、薩摩藩は旧態依然とした幕政では日本の将来が危ういと考えるようになり倒幕へ傾きはじめました。同じ頃に日本の行く末を憂えていたが土佐藩を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎でした。彼らは西郷隆盛に長州藩と手を結ぶよう提案し、長州藩の桂小五郎には薩摩藩と手を結ぶように話をします。これがきっかけとなって慶応2年(1866年)1月21日に薩長同盟が締結されました。
【参考】薩長同盟(1866年1月21日)
この同盟委により長州藩は薩摩藩から最新の武器を入手できるようになり密かに軍事力を強化しました。第一次長州征伐で敗北し朝敵となった長州藩でしたが幕府に対して反抗的な態度を示すようになりました。長州藩が軍事力を整えていることを危惧した幕府は再び長州征伐を決断しました。将軍の徳川家茂が大阪城に入り15万の大軍を長州征討に動員しました。
薩長同盟を結んでいた薩摩藩が幕府に対して参戦を断りました。当初、15万人の幕府軍が優勢と思われましたが、長州藩は薩摩藩から入手した最新の武器で幕府軍を圧倒しました。幕府の戦況が不利となる中で大阪城に滞在していて徳川家茂が病死したことにより幕府軍は撤退せざるを得なくなりました。幕府は朝廷に休戦の勅命を発してもらい長州藩と停戦合意に至りました。
幕府軍の惨敗により幕府軍の軍備は西洋の最新兵器に対しては役に立たないことが知れ渡り江戸幕府の権威を失墜させました。長州藩および薩摩藩を中心とする倒幕運動が加速しました。
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