一〇〇式重爆撃機「呑龍」
一〇〇式重爆撃機「呑龍」は性能的に限界に達しつつあった九七式重爆撃機の後継機種として日本陸軍が昭和13年(1938年)に中島飛行機に開発を命じた重爆撃機です。
この新型重爆撃機はキ49として開発が進められ1939年8月に初飛行しました。昭和15年(1940年)に完成しました。昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたる年でした。日本陸軍がキ49を正式に採用したのは昭和16年(1941年)です。正式採用年に従う命名では一式爆撃機となりますが、皇紀2600年を記念して一〇〇式爆撃機と名付けられました。皇紀2600年を冠する航空機には一〇〇式司令部偵察機「新司偵」や一〇〇式輸送機があります。 愛称の「呑龍」は中島飛行機の工場のあった群馬県太田市の「子育て呑龍」と呼ばれる浄土宗の寺院「大光院」に由来します。「呑龍」は江戸時代に貧乏人の子弟を養育した浄土宗の僧の名前です。
一〇〇式重爆撃機「呑龍」は戦闘機の護衛を必要としない20 mm機関砲などの重武装と時速500 kmの高速性能を有する重爆撃機として設計されました。しかし、完成した頃には敵戦闘機の性能が向上していたため実戦では戦闘機の護衛を必要としました。結果的に重装備以外は九七式重爆撃機との性能は変わらず、採用したエンジンの中島ハ41やハ109の信頼性が低く故障が頻発したことから実践部隊の評価は高くありませんでした。主に南方戦線に配備されましたが、このような事情から次第に他の爆撃機が使われるようになりました。
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