新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)
明治2年(1869年)4月9日、蝦夷に向かった新政府軍は乙部から上陸を開始しました。新政府軍は松前口、木古内口、二股口から箱館に向けて進軍を開始しました。旧幕府軍は新政府軍の進軍を阻止するため各地で迎え撃ちましたが多勢に無勢でほどなく撤退を余儀なくされました。
そのような状況の中で土方歳三が率いる衝鋒隊および伝習隊からなる300名の部隊は二股口で新政府軍に徹底抗戦しました。地の利もあって歳三の部隊は新政府軍の部隊を寄せ付けませんでした。新政府軍は二股口の攻略を諦め道を切り開いて箱館に向かいました。同年4月29日、矢不来が陥落すると連戦連勝していた歳三は退路を断たれることを恐れて五稜郭へ撤退しました。同年5月2日、ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団がフラナス軍艦コエトローゴン号で箱館を脱出しました。これをきっかけに旧幕府軍兵士たちが脱走を始めました。
同年5月5日、歳三は五稜郭において新選組以来の小間使であった16歳の市川鉄之助に日野宿の佐藤彦五郎に自身の遺品を届け戦況を詳しく伝えるよう命じました。鉄之助は箱館の地で果てるつもりだったため拒否しましたが、歳三が抜刀し命令に従わなければ討ち果たすと威嚇したため箱館を脱出し佐藤彦五郎のもとへ向かうことにしました。歳三は多摩出身の隊士で鉄之助と同じ年頃の渡辺市造に多摩に不慣れな鉄之助の案内役として同行するよう命じました。鉄之助らが五稜郭を出ると城門の小窓から見送る人影に気がつきました。歳三は若き2人の無事を願い行く末を案じて見送ったのでしょう。
五稜郭に戻った歳三は新選組の島田魁らと新政府軍の有川の本陣に連日夜襲を仕掛けました。このとき新政府軍は箱館総攻撃の準備を進めていました。新政府軍は陸軍本隊に五稜郭に包囲させ、陸軍の奇襲部隊には箱館山の裏手の海岸から崖をよじ登り箱館山山頂を制圧させ、海軍には箱館湾や大森浜から陸軍の攻撃を支援し五稜郭に艦砲射撃を行わせる三面作戦を講じました。
明治2年(1869)5月11日午前3時、新政府軍の朝陽と丁卯の箱館市中への砲撃が始まり総攻撃が始まりました。これに反撃できたのは旧幕府軍の幡龍のみでしたから朝陽と丁卯の砲撃を阻止することはできませんでした。
午前4時頃、新政府軍の陸軍奇襲部隊が箱館山裏側の寒川に到着し上陸を始めました。箱館山の険しい崖をよじ登り山頂をめざしました。山頂の旧幕府軍の新選組や伝習士官隊が新政府軍に気がついたのは夜が明けた頃でした。突然の新政府軍の襲撃に反撃することもできず新選組を中心とする部隊は箱館山を下り弁天台場に逃げ込みました。その他の部隊は千代ヶ岱陣屋、五稜郭まで撤退しています。
箱館山を制圧した新政府軍は函館市中になだれ込みました。一方、奇襲部隊の別働隊は山背泊から上陸し弁天台場を包囲し攻撃を開始しました。さらに新政府軍の甲鉄、春日が援護砲撃を行ったため弁天台場は孤立してしまいました。
【参考】弁天台場|新撰組最期の地
午前8時頃、朝陽と丁卯と抗戦していた幡龍の艦長の松岡磐吉は双眼鏡で着弾を確認しながら砲撃を指示しました。砲手の永倉伊佐吉が発した砲弾が朝陽丸の弾薬庫に命中、朝陽丸は爆発し轟沈したのです。これによって箱館政権軍の士気は高まりました。蟠竜は追撃してきた甲鉄らの集中砲火を受けましたが弾が尽きるまで戦闘した後に浅瀬に乗り上げました。船長の松岡磐吉をはじめとする乗組員は敵中を突破し弁天台場に逃げ込みました。伊佐吉は艦長のため退去する小舟を取りに行くと海に飛び込みましたが溺死してしまいました。
これまで陸軍本体と戦っていた土方歳三は箱館市街と五稜郭が分断されたことを知ると側近の安富才助と沢忠助、額兵隊を率いて函館市街へ向けて出陣しました。弁天台場の新選組の相馬主計は援軍を求めるよう大野右仲を五稜郭に派遣しました。右仲は千代ヶ岱陣屋あたりで歳三が率いる部隊に出逢いました。右仲は安堵し土方隊とともに一本木関門に向かいました。そこに伝習士官隊が敗走してきました。歳三は「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率いて戦え」と檄を飛ばしました。「この機失すべからず。」とは幡龍が朝陽を轟沈させたことです。「子」とは右仲のことです。
右仲は歳三の命令に従い額兵隊と伝習士官隊を率いて一本木関門から異国橋付近まで進撃しましたが新政府軍の反撃により一本木関門へと引き返しました。このとき右仲は歳三が守っているはずの一本木関門で敗走していく兵士を見て驚き千代ヶ岡陣屋まで引き返したところ、安富才助から歳三の戦死を知らされました。一本木関門で指揮をしていた歳三は一発の銃弾を腹部に受けて落馬し絶命していたのです。
歳三の死が五稜郭に伝えられると箱館政権で探索役主任と箱館市中取締役を兼任していた小芝長之助が遺体を引き取りにきました。歳三の遺体は五稜郭の一本松の土饅頭に埋葬されたという説がありますが埋葬場所には諸説あり確定していません。<b
土方歳三戦死、享年35歳。近藤勇が亡くなった年齢と同じでした。
辞世の句とされるのは次の3つです。
・よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ
・たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん
・鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすは屍の上に照かと
箱館政権の榎本武揚が降伏したのはその6日後の5月17日でした。
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