天下を勢力図を塗り替え奇襲作戦|桶狭間の戦い(1560年5月19日)
天文21年(1552年)3月3日、尾張国を支配する織田信秀が死去すると嫡男の織田信長が家督を継ぎ織田弾正忠家の後継者となりました。家督を継いだ信長は尾張を平定していきますが、三河との国境の要地である鳴海城と笠寺城を守る山口教継が今川軍に投降していたことから尾張国内に今川家の城が存在していました。とりわけ尾張東南の大高城と沓掛城は尾張中心部と海運の要地であった知多半島を分断する位置にあり織田家にとって邪魔な存在でした。織田家を安定させた信長はそれら今川家の城を攻略し始めますが、三河を支配する今川義元にとって信長の動きは目障りなものでした。
永禄3年(1560年)5月12日、義元は2万5千人の大軍を率いて駿府を出陣し尾張に侵攻しました。義元の出陣の目的は上洛と言われますが近年の研究では織田家の城を駆逐して三河の安定を図るのが目的だったと考えられています。義元は三河勢の松平元康(後の徳川家康)の隊を先行させ大高城に兵糧を運び込ませました。織田方は軍議を開きましたが雑談をするだけの信長に家臣たちは失望しました。家老たちは籠城を進言しましたが信長は出陣の考えを秘匿し動きませんでした。
5月19日午前3時頃、今川軍の松平元康と朝比奈泰朝の部隊が織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を仕掛けると、信長は飛び起きて「敦盛」舞い出陣の準備を始めました。午前4時頃、清洲城を出て熱田神宮で軍勢を整え戦勝祈願を行いました。今川軍の勢いは止まらず織田方の城を制圧していきました。織田軍は今川軍が桶狭間山に本隊を布陣させている情報を得て進軍を始めました。
午後1時頃、突然豪雨が降り始め視界が不良となりました。織田軍はこの雨に乗じて義元本隊に奇襲を仕掛けました。突然の奇襲により今川軍は混乱し義元は300名ほどの旗本とその場を逃れました。しかし織田軍の度重なる攻撃により義元は手勢を次第に失いついに織田軍に追いつかれてしまいました。
義元は太刀を抜いて自ら奮戦しまし一番槍をつけた服部一忠に反撃するも毛利新介によって組み伏せられ討ち取られました。 総大将の義元の討ち死ににより今川軍は戦意を喪失し、信長は桶狭間の戦いに勝利しました。この戦がきっかけとなり織田信長が台頭、天下の勢力図が大きく塗り替えられることになりました。
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