新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)
新選組局長の近藤勇は慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦で敗北後、土方歳三らとともに幕府軍艦の富士山丸で江戸に戻りました。勇は江戸城梶橋門外の秋月種樹邸を新選組の屯所し、徳川慶喜に甲斐国甲府城の委任を願い出る建白書を提出しました。このとき慶喜は新政府に恭順することを決めていましたが、幕府は同年2月28日は新選組に「甲陽鎮撫」を命じました。陸軍総裁の勝海舟が新政府と交渉を始めるにあたり新選組などの抗戦派を江戸市中に留め置くことは得策ではないと考え甲陽鎮撫を命じたという説がありますが、新選組に兵士と兵器を提供するなど過分な支援をしていることから新選組にひと暴れさせて新政府との交渉を有利に進めようとした意図もあったのではないかと考えられています。
幕府から甲陽鎮撫の命を受けた勇は自らの名を大久保剛と変え新選組を甲陽鎮撫隊と改名しました。このとき土方歳三も内藤隼人の変名を名乗りました。この甲陽鎮撫隊には日野宿の佐藤彦五郎も加わっています。甲陽鎮撫隊は同年3月1日に江戸の屯所を出発し甲州街道で甲府に向かいました。しかし、甲府は甲陽鎮撫隊が到着する前に板垣退助が率いる迅衝隊により制圧されていました。同年3月6日に甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊に破れて敗走しました。甲陽鎮撫隊は八王子宿まで撤退しましたが、もともと武田家臣団だった八王子千人隊が板垣退助に恭順していたため江戸に引き返しました。
永倉新八と原田左之助は勢力を立て直し京都で新選組を庇護した会津藩の松平容保のいる会津藩に向かう計画を立て勇と会談しました。勇は計画実行にあたり2人に対して家臣となるよう求めたため2人は離脱しました。勇と土方歳三は江戸市中で隊士を募集し会津行きの準備を進めました。このとき勇は変名を大久保大和に改めています。
同年4月、勇と土方歳三は隊士を率いて下総国流山(千葉県流山市)に移動しました。新政府軍は下野国の宇都宮城占拠を狙う会津藩と桑名藩と対峙するため日光街道を北進しましたが、流山に集結していた幕府軍が背後から攻撃を仕掛けてくる計画を知り流山を包囲しました。同年4月3日、切腹を考えていた勇は歳三に勧めにより大久保大和と名乗り新政府軍に投降しました。歳三は江戸の勝海舟のもとを訪れ近藤の助命嘆願をしましたが願いは叶いませんでした。
新政府軍は大久保大和を板橋宿の総督府に連行し取り調べを行いました。勇は自分が大久保大和であると主張しましたが新政府軍の加納鷲雄、清原清に近藤勇であることを見抜かれました。2人は新選組に粛正された元新選組隊士の伊東甲子太郎が率いる御陵衛士だったのです。大久保大和の正体が近藤勇であることがわかると、土佐藩の谷干城と薩摩藩の平田宗高の間で勇の処遇について対立しました。宗高は勇を武士として生かしたまま京都に送ることを主張しましたが、干城は勇は浪人たちの頭に過ぎないと即時の斬首を主張しました。最終的には甲州での戦いを理由に勇は斬首のうえ京都に送られることになりました。甲陽鎮撫隊の結成が勝海舟らの指示によるものではないかと考えいた干城は勇に対して斬首の前に厳しい拷問による取り調べを行うべき主張しましたが、平田は江戸開城を前に火種を探す必要はないと主張しました。結果的に勇は即刻斬首されることになり、慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場にて斬首されれたうえ京都に送られました。京都の三条河原で梟首となりましたが、その後の首の行方はわかっていません。近藤勇、享年35(満33歳没)。
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