日本の国歌「君が代」の成り立ち
我が国の国家「君が代」の歌詞は平安時代前記の歌集「古今和歌集」に収録されている和歌「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」に由来します。この和歌は巻七「賀歌」巻頭に読人知らずとして収録されています。「我が君」は特定の人物を指すものではないため当時の帝を意味していたとの解釈があります。
この和歌は平安時代に紀貫之が撰した「新撰和歌」や藤原公任が撰した「和漢朗詠集」などにも収められ祝賀の歌、朗詠として親しまれるようになりました。「君」は天皇の意味とされていますが、9世紀の光孝天皇は僧で歌人の僧正遍昭の長寿の祝いで「君が八千代」と記しています。つまり「君」は天皇を意味するものではなく祝賀を送る相手の意味でした。この和歌は長寿の祝いや願いを込めて歌われていたのです。安土桃山時代の日蓮宗の僧の隆達にいたっては恋の小唄としています。
「我が君」が「君が代」と記された最古のものは「和漢朗詠集」の鎌倉時代のものとされています。これ以降は「我が君」と記されているものはほとんど存在しないことから、時代とともに「君が代」と表現されるようになったと考えられています。そして時代が進むに連れて「君」は君主や天皇を意味するようになりました。
幕末の開国を経て明治維新が起こり戊辰戦争が終結すると、それまで以上に外交が盛んになりました。明治2年(1869年)7月にイギリスのヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドが来日することが決まると、横浜のイギリス大使館護衛部隊陸軍第10連隊第1大隊軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンは日本側に式典では国歌演奏を行うのが慣例と説明しました。しかし当時の日本には国歌どころか国歌という考えがありませんでした。
翌明治3年(1870年)、フェントンが日本初の薩摩藩の楽団「薩摩バンド」を指導していた関係で、薩摩藩歩兵隊長の大山巌が薩摩琵琶曲「蓬莱山」の一節から「君が代」の歌詞を推薦しました。フェントンは当時の日本の楽団が有する楽器で演奏できるよう作曲し「君が代」が完成しました。同年9月8日、東京の深川越中島に明治天皇の前で薩摩バンドにより初演されました。
初代 君が代 (フェントン作曲) The first version of Japan's national anthem
しかしながら、フェントンが作曲した「君が代」は西洋的な旋律に慣れ親しんでいない日本人にとっては威厳を欠いているように聞こえました。明治9年(1876年)、海軍楽長の中村祐庸は「君が代」の楽譜を改訂を上申しました。明治13年(1880年)、宮内省伶人長林廣守が雅楽で作曲したものが採用され、これをドイツ人で海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが吹奏楽用に編曲しました。改訂された「君が代」は同年に礼式曲とされ事実上の国歌となりました。
明治26年(1893年)、文部省文部臣井上毅により「君が代」は皇統の永続性を主題とする国歌と告示されました。こうして法的な根拠はないものの「君が代」の「君」は天皇を意味するようになりました。
史上最も美しい「君が代」 / The most beautiful "Kimigayo" ever
日本の国旗ならびに国歌が法制化されたのは平成11年(1999年)8月13日です。「国旗及び国歌に関する法律」が公布され即日施行されました。日本国憲法において天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ことから「君が代」の「君」は天皇をはじめとする国民の長寿と国家の永続を意味するものでもあるでしょう。
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