市川・船橋戦争(慶応4年 1968年閏4月3日)
慶応4年(1968年)4月11日、江戸城が無血開城し徳川慶喜は蟄居先の水戸へ移動しました。幕府海軍副総裁の榎本武揚は旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から館山沖に移動しました。幕府陸軍の大鳥圭介は伝習隊を率いて市川に移動、撤兵頭の福田道直は撒兵隊を率いて木更津に移動しました。
福田ら撤兵隊は12日に木更津に本拠を置き義軍府と称しました。福田は市川の国府台に大鳥が率いる伝習隊が集結しているという情報を得ると江原鋳三郎の撒兵隊第1大隊を市川に派遣しました。しかしながら大鳥は前日に合流した新選組副長の土方歳三から近藤勇が流山で捉えられたことを聞き市川が危険であることを悟り会津藩と合流すべく北へ移動を開始していました。
新政府軍は大鳥の伝習隊が北へ移動したことから戦闘態勢を解除していましたが撒兵隊の予想外の出現により千住宿を守備していた岡山藩に出兵を命じました。岡山藩は江原と武装解除の交渉を申し入れました。江原も大鳥の伝習隊との合流ができなくなったことから単独で戦うことは不可能と考えて了承しました。陣中に戻った江原が武装解除の意向を伝えると血気盛んな強硬派が反対し部隊の方針はまとまりませんでした。
新政府軍は八幡に岡山藩、行徳に福岡藩、鎌ケ谷に佐土原藩、本陣の市川に安濃津藩を対峙させ閏4月1日までに江原に武装解除に応じなければ攻撃を開始すること通告しました。閏4月2日、最後通牒を受けた江原はこれを拒否し先手を打って新政府軍を攻撃することにしました。
閏4月3日早朝、江原は八幡の岡山藩への攻撃を開始しました。安濃津藩が援軍を送りましたが両藩は総崩れとなりました。撒兵隊は士気を高めましたが岡山藩、安濃津藩、薩摩藩の援軍が駆けつけ反撃を開始しました。多勢に武勢となった江原は撤収を決断し船橋へ向かいました。しかしながら船橋は佐土原藩の攻撃を受けており、船橋に向かっていた江原の部隊は挟み撃ちになり敗走しました。江原は銃弾を受けて負傷し現地に従者と現地に潜伏しました。まもなく新政府軍は船橋を制圧し、さらに木更津の福田の本体を敗走させました。これによって市川・船橋戦争は新政府軍の勝利で終結しました。戦後の福田道直については詳細な記録が残っておらず不明となっています。敗走した撒兵隊は上総方面に南下しましたが房総最後の決戦となる五井戦争で破れました。これにより房総は新政府軍により制圧されました。
江原鋳三郎は船橋で潜伏後に江戸に移動しましたが残党狩りの対象となっていることを知り江戸市中を転々と移動し潜伏生活を続けました。潜伏中に榎本武揚から同行するよう要請されましたが既に勝敗は決していると断りました。同年8月、徳川家が駿府に移封され、徳川家を継いだ徳川家達が静岡に移ると、江原は小野三介と名を変えてアメリカ船で静岡に向かいました。ところが悪天候による波浪のため江原を乗せた船は下田に避難しました。新政府が駿府藩に江原の拘束と引き渡しを命じていることを知った江原は名を水野泡三郎と変え小野三介を行方知らずにしました。しばらく中泉村竹原(現 長泉町)で匿われて潜伏していたところ同年10月に手配が解かれ徳川藩陸軍御用重立取扱に任命されました。明治元年(1868年)12月に名を江原素六に改めました。その後は沼津兵学校の設立に尽力し教育者として活躍しました。
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