忠犬ハチ公の日(昭和9年 1934年4月8日)
忠犬ハチ公として有名な秋田県のハチは大正12年(1923年11月10日に秋田県北秋田郡二井田村(現:大館市)大子内の斉藤義一宅で生まれました。縁があってかねてより秋田県の子犬を育てたいと考えていた東京帝国大学農学部教授の上野英三郎の宅で飼われることになりました。ハチが東京にやってきたのは大正13年(1924年)1月15日です。
愛犬家の上野はハチをたいそうかわいがりました。上野が出かけるときにはハチは玄関先で見送り、上野も最寄り駅の渋谷駅までハチを連れていくことがよくありました。ハチも渋谷駅まで上野を迎えに行きました。
ハチが上野宅にやってきてから約1年後の大正14年(1925年)5月21日、上野は大学で会議に出席した後に脳溢血で倒れ死去しました。上野がいなくなったことを悟ったハチは食欲がなくなり3日間は何も口にしなかったと伝えられています。上野の通夜は25日に行われましたが、このときハチは上野を迎えるため渋谷駅で待っていました。
その後、ハチは上野の妻の親戚や浅草の知人の家に預けられましたが散歩中に逸走して上野を迎えに渋谷駅を訪れることもしばしばあったようです。近所とのトラブルもありハチは上野宅に戻ってきました。しかし近所の畑を走り回って荒らすことから、昭和2年(1927年)に渋谷の隣町の富ケ谷に住んでいた上野宅の出入りの植木職人の小林菊三郎に預けられることになりました。小林はハチが子犬の頃から可愛がっていたことからハチも小林に慣れ親しんでいました。小林の家に移り住んでからハチは上野の帰宅時間に合わせて渋谷駅に出かけるようになりました。このときハチは必ず旧上野邸に寄り家の中の様子を窓越しに見ていたそうです。食事の時間になると小林宅に戻りまた渋谷駅に出かけることを繰り返し、上野の姿を探しながら帰りを待ち続けました。
ハチは通行人からいたずらされたり野犬と間違われてよく捕まったりていましたが、ハチが上野を迎えに渋谷駅に通っていることを知っていた日本犬保存会の初代会長の斎藤弘吉が昭和7年(1932年)にハチの物語を東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」という題名で寄稿しました。これがきっかけとなってハチは多くの人々に知られるようになり、その忠犬ぶりが人々を感動させました。やがて渋谷駅で上野の帰りを待ち続けるハチは「ハチ公」と呼ばれるようになり人々からかわいがられるようになりました。渋谷駅もハチが駅で寝泊まりすることを特別に許可しました。
新聞で「忠犬ハチ公」のことを知った彫刻家の安藤照は斎藤弘吉にハチ公の銅像を造りたいと申し出ました。小林はハチを連れて安藤のアトリエに通い銅像の製作が始まりました。ところが上野家からハチのことを任されたと称する人物が現れハチ公の木像を製作する資金集めと称して絵はがきの販売を始めました。安藤は「忠犬ハチ公」の銅像の完成を急ぎました。
昭和9年(1934年)4月21日、渋谷駅正面に「忠犬ハチ公像」が設置され除幕式には上野の妻をはじめとする多くの人々が集まり銅像の完成を祝いました。このとき銅像のモデルとなったハチも除幕式に参列していました。銅像の完成を急いだためハチが生存中に銅像が設置されたのですが、生存中に銅像が設置されることは異例なことでした。
ハチは除幕式の翌年の昭和10年(1935年)3月8日に亡くなりました。ハチは渋谷駅のいつもの場所と反対側で見つかりました。渋谷駅の「忠犬ハチ公」の像は花環で囲まれ大勢の人々がハチの死を哀しみました。ハチは解剖され剥製とされました。当時の解剖で死因はフィラリアもしくは焼き鳥の串を飲み込んだことと伝えられていますが、後年の調査で重度の癌にかかっていたことが判明しています。
第二次世界大戦が始まり物資の不足が深刻化すると昭和16年(1941年)に金属回収令の勅令が出されますた。「忠犬ハチ公」の銅像ももれなく対象となり供出されることになりました。これに対して抗議運動が起こりましたが他の銅像や鐘あらゆる金属製品が供出されるなかで「忠犬ハチ公」の銅像だけ特別に対応するわけにはいきませんでした。そこで示しがつかないという理由で昭和19年(1944年)10月に渋谷駅から「撤去」されることになりましたが、昭和20年(1945年)8月14日に溶解され東海道線を走る機関車の部品となりました。
終戦から3年後の昭和23年(1948年)、安藤の息子の安藤士によって「忠犬ハチ公」の銅像が再建されました。た連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)もハチの忠犬ぶりを理解し関係者が銅像の再建を支援しました。再建された「忠犬ハチ公」の銅像の除幕式は同年8月15日に行われました。
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