明治政府が長崎の浦上のキリシタンを流罪|浦上四番崩れ(慶応4年 1968年閏4月17日)
江戸幕府は徳川家康の頃からオランダ、清、朝鮮、琉球を除く異国との外交を制限し日本人の海外渡航を禁止しました。その原因となったスペインやポルトガルが広めたキリスト教を禁じ宣教師や信徒を徹底的に弾圧する政策をとりました。幕府はキリスト教宣教師や信徒を見つけると捕縛し仏教へ改宗させ拒否するものは処刑するという厳しい対応を行っていました。そのような状況の中、表向きはキリスト教から仏教に改宗した者たちが隠れキリシタンとなって秘密裏にキリスト教の信仰を守り続けていました。彼らはしばしば幕府に発見され弾圧を受けました。
北九州地区は戦国時代の頃からキリシタン大名がキリスト教を擁護していたため多数のキリスト教徒信徒がいました。豊臣秀吉や徳川家康の時代になると彼らは弾圧されるようになり、それでもなお信仰を続けるものたちは隠れキリシタンとなりました。唯一開港されていた長崎はキリスト教と関係が深く多数の隠れキリシタンが暮らしていました。
現在の長崎県長崎市の肥前国彼杵郡浦上村では江戸時代の中期から明治時代初期にかけて4度に渡りキリシタン弾圧が行われました。これを「裏紙崩れ」といいます。「崩れ」は検挙のことです。寛政2年(1790年)の天保13年(1842年)の浦上二番崩れにおいては隠れキリシタンの証拠が不十分などの理由から弾圧には至りませんでしたが安政3年(1856年)の浦上三番崩れでは実際に隠れキリシタンが捕縛・処刑されるなど徹底的な弾圧が行われました。これによって浦上の隠れキリシタンたちは壊滅状況になりましたが、それでもなを難を逃れたものたちがキリスト教の信仰を守り続けました。彼らは表向きは仏教徒であることを装いながら慈母観音像を聖母マリアに見立てて信仰の対象としこれを「マリア観音」と呼びました。
元治元年(1864年)、日仏修好通商条約の締結により長崎のフランス人居留地にカトリック教会の大浦天主堂が建てられました。この洋風建築の天主堂は日本人の住民の間でも話題になり、多くのものが見物に訪れました。
大浦天主堂の司祭ベルナール・プティジャン神父は訪れる日本人の中にキリスト教信仰者がいるのではないかと期待し天主堂の一般公開を続けました。元治2年(1865年)4月、プティジャン神父のもとに浦上村の住人が訪れました。彼らはプティジャン神父にキリスト教を信仰していること告げ本物のマリア像に祈りを捧げました。プティジャン神父は驚愕し本国に「信徒発見」の詳細を報告しました。その後も天主堂に見物を装って日本人信徒が訪れるようになり、プティジャン神父は彼らに対して秘密裏にミサを行うようになりました。やがてミサが常態化するとキリスト教信者と自ら名乗るものが現れるようになりました。
慶応3年(1867年)、浦上村住民が仏式の葬儀を拒否する事件があり隠れキリシタンが存在することが明るみに出ました。長崎奉行は取り調べを行ったところ信徒代表の高木仙右衛門をはじめとする者たちがキリスト教の信仰を認めました。長崎奉行は対応に困り彼らを村に返し江戸幕府に顛末を報告しました。幕府は隠密に浦上村を調査させ同年6月13日に高木仙右衛門ら信徒68名を捕縛しました。信徒たちはいっさいの抵抗をせずひざまずいて両手を出し自ら捕縛されました。その後、彼らは厳しい拷問を受けました。これが「浦上四番崩れ」です。この事件を知った諸外国は直ちに江戸幕府に対して抗議を行い宗教弾圧を批判しました。同年8月24日にフランス公使レオン・ロッシュと徳川慶喜が大阪城で会談を行いましたが同年10月に大政奉還、12月には「王政復古の大号令」が発せられ江戸幕府は終焉しました。
江戸幕府終焉後、明治政府は慶応4年(1868年)3月15日に民衆に対する禁止令「五榜の掲示」の高札を出しましたが第三番札に「切支丹・邪宗門の禁止は江戸幕府の統制を踏襲する」とありました。長崎裁判所総督の澤宣嘉と外国事務係の井上馨は浦上の信徒たちに改宗するよう説得しましたが彼らが応じないため政府に対して中心人物の処刑とその他信徒の流罪を提案しました。政府は諸外国からの抗議を鑑みて死罪は退けて同年閏4月17日に太政官達で信徒全員を流罪とすることを発表しました。信徒たちは流刑先で幕府時代よりも著しく厳しい拷問を受けました。
諸外国の公使は明治政府の対応を激しく非難し顛末を本国に報告しました。明治4年(1871年)に不平等条約改正の交渉のため欧米に派遣された岩倉使節団は訪問先でキリスト教の禁止令を非難され日本のキリスト教弾圧が交渉の妨げになっていることを痛感しました。キリスト教の禁止令を廃止するか継続するか国内で様々な意見が出ました。当初、日本政府はキリスト教の解禁をしない方針でしたが、明治6年(1873年)2月24日にキリスト教禁制の高札を撤去し捕縛していた信徒たちを解放しました。流罪とされた信徒は3394名、662名が死亡しました。解放された者たちはキリスト教の信仰をより強くしました。「浦上四番崩れ」をきっかけに長年続いた日本のキリスト教禁制が終戦しキリスト教が日本各地で再び広まりました。
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