江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)
慶応4年(1868年)1月3日に開戦した戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗北すると徳川慶喜は大阪城を脱出し同年1月12日に江戸城に退却しました。慶喜は小栗忠順、松平容保、松平定敬の抗戦の主張を退け、老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志を罷免、容保と定敬には謹慎を命じました。自らは同年2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎し事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せました。
新政府軍は江戸総攻撃を決断し東上を開始しました。江戸に迫る新政府軍に対して局地的に旧幕府軍が対峙しましたが新政府軍の最新の武器の前に旧幕府軍は敗戦を続けました。日本と江戸の行く末を案じた恭順派の海舟は新政府軍との和平交渉の道を探りました。慶喜は側近の高橋泥舟に新政府軍の西郷隆盛との交渉を命じたが泥舟は慶喜警護のため義弟の山本鉄舟を推薦しました。海舟は鉄舟を隆盛のもとに派遣し和平交渉を働きかけました。無益な戦いは避けたいと考えていた西郷隆盛は山岡鉄舟の説得を聞き入れ海舟と会談することを決めました。
同年3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸において海舟と隆盛の会談が行われ、江戸城の無血開城の条件の交渉が行われました。隆盛は徳川慶喜の謹慎、江戸城を新政府軍に明け渡す、旧幕府軍は武装解除することを条件に江戸を総攻撃しないこと了承しました。こうして鉄舟と隆盛の下交渉後に隆盛と海舟との会談が行われ江戸無血開城の話がまとまりました。同年4月11日、慶喜は慶寛永寺から水戸へ出発し江戸城は無血開城しました。
江戸城の無血開城によって江戸の町と多くの人々の命が守られました。海舟は隆盛が交渉に応じない場合は江戸市中に火を放ち江戸の機能を停止させるつもりでいました。旧幕府軍を倒しても列強と対峙しなければならない新政府軍は無駄な戦を避ける必要がありました。旧幕府軍の戊辰戦争は箱館戦争まで続きましたが、江戸開城後の幕府から新政府への政権以降は大きなトラブルもなく滞りなく行われました。江戸開城は日本の近代化にとって重要な転換点となりました。
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