黒田清隆が内閣総理大臣に就任( 明治21年 1888年4月30日)
初代内閣総理大臣の伊藤博文は大日本帝国憲法の制定に専念するため総理大臣を辞任することにしました。伊藤博文は自分の後任に農商務大臣の黒田清隆を推挙し、自身は初代枢密院議長に就任しました。黒田清隆は農商務大臣を自身が信頼する逓信大臣の榎本武揚に兼任させ、暗殺された森有礼が努めていた文部大臣を欠員とし、その他は第一次伊東内閣の全閣僚を留任させたうえで明治21年(1888年)4月30日に黒田内閣を発足させました。なお農商務大臣には同年7月25日に井上馨が就任し、文部大臣には明治3年(1889年)2月16日に陸軍大臣の大山巌が兼任で就任しています。大山巌は同年3月22日に陸軍大臣専任となり文部大臣には榎本武揚が就任いました。榎本武揚が努めていた逓信大臣には後藤象二郎が就任しました。
黒田内閣は大日本帝国憲法の制定と議会の開設により自由民主化運動が再燃することを抑えることと、欧米列強との不平等条約の改正をめざすことが主たる目的でした。また内閣に立憲改進党前総裁の大隈重信を外務大臣に留任させたり、逓信大臣に大同団結運動の指導者の後藤象二郎を就任させたりすることで自由民権派を取り込みました。自由民権諸派を分断する意図があったと伝えられいますが、黒田清隆の過去の行動を考えると何とかうまくやりたいと思って引き込んだのではないかと思います。外交においてはメキシコと平等な日墨修好通商条約を締結し、これを足がかりに列強との不平等条約の改定の交渉を進める準備を整えました。しかしながら、外務省が領事裁判権(治外法権)を撤廃する条件として裁判官に外国人を登用することを法案を出したため、これが外国人司法官任用問題に発展し黒田政権は大混乱しました。とりわけ条約改正案に反対したのは榎本武揚の後に農商務大臣に就任した井上馨でした。
【参考】黒田清隆が「超然主義」を表明(明治22年 1889年2月12日)
同年10月18日、外務大臣の大隈重信は国家主義団体玄洋社団員来島恒喜による爆烈弾の襲撃を受け右足切断の重傷を負いました。この事件により黒田清隆は同年10月23日に大隈重信を除く全閣僚の辞任を提出しました。公布された憲法が施行されていないこともあって、明治天皇は黒田清隆の辞任は認め、それ以外の閣僚には留任を命じました。そして内大臣の三条実美に内閣総理大臣を兼任させました。これにより三条暫定内閣が成立しました。黒田清隆は辞任後に枢密顧問官に就任しました。同年11月21日、黒田と伊藤に対し元勲優遇の詔が下されました。
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