長尾景虎が関東管領となり上杉政虎に改名(永禄4年 1561年閏3月16日)
天文17年(1548年)12月、長尾景虎は19歳で長尾家の家督を継ぎ越後守護代となりました。天文19年(1550年)2月、越後守護の上杉定実が後継者を立てないまま死去すると、は室町幕府第13代将軍・足利義輝は景虎に越後守護を代行を命じました。これによって景虎は越後の国主となりました。その後、景虎の家督相続に不満をもった坂戸城主の長尾政景が謀反を起こしましたが景虎はこれを鎮圧し越後統一を果たしました。
天文21年(1552年)1月、関東官僚の上杉憲政は相模国の北条氏康に攻められ領国を追われたことから景虎のもとに身を寄せました。これにより長尾家は北条家と敵対関係になりました。同年、甲斐国の武田晴信が信濃に侵攻しすると、景虎は救いを求めてきた信濃守護の小笠原長時および村上義清を支援しました。これにより長尾家は武田家と敵対関係になりました。同年9月、景虎は上洛を果たし後奈良天皇および足利義輝に謁見、天皇から御剣と天盃を下賜され、敵を討伐する勅命を受ました。景虎は晴信討伐を決意し自ら信濃国に出陣しました。これが「川中島の戦」のはじまりです。
永禄2年(1559年)5月、景虎は再び上洛し正親町天皇や足利義輝に拝謁しました。景虎を高く評価していた義輝は室町幕府再興のため景虎を地方の大名でなく管領並の待遇をし「上杉の七免許」を与えました。「上杉の七免許」は「山内上杉家の家督」「関東管領職」「屋形号」「五七桐の紋」「裏書御免」「塗輿御免」「白傘袋・毛氈鞍覆の使用許可」という破格の特権でした。
永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討ち取ると、武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が弱体化し、景虎は北条氏康の討伐を決断し関東へ侵攻しました。北条の支城を攻略し厩橋城を拠点とし関東の諸将に北条討伐の号令を下しました。
永禄4年(1561年)閏3月16日、長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と上杉憲政の関東管領職を相続し「政」の字を受けて上杉政虎と改称しました。政虎は後に将軍の足利義輝より「輝」の字を受けて上杉輝虎と名乗りました。謙信はその後に称した法号ですが、上杉輝虎よりも上杉謙信の名の方が広く知られています。
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