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2025年3月19日 (水)

江戸幕府が「江戸廻送令」を発令(万延元年 1860年閏3月19日)

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 安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と修好通商条約「安政の五か国条約」を結んだことから翌年から箱館・横浜・長崎が開港され貿易が始まりました。これによって日本の商人と外国の商人の間で輸出入品の取引が行われるようになりました。

 特に大きな問題となったのは江戸に近い横浜港での貿易でした。日本からの輸出品は国内よりも海外に高く売れたため卸売り業者は江戸の問屋を通さず直接横浜港に品物を卸すようになりました。これによって国内の従来の問屋による流通が立ちゆかなくなり、また輸出品の急増により需要が供給を上回ったことで物価が高騰し、国内の経済が混乱し始めました。特に大きな問題となったのは生糸でしたが、やがて雑穀や水油なども不足するようになりました。

生糸の生産 計量の様子
生糸の生産 計量の様子

 このため江戸幕府は万延元年(1860年)閏3月19日に最初の貿易統制令「江戸廻送令」を発令し、生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の五品については生産地から直接横浜港に卸すこと禁じ江戸へ積み廻しすることを命じました。この命によって5品目は江戸での需要を満たしてから開港地に出荷されることになりました。

「神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候に付、諸商人共一己利徳に泥み、競而相場糶上げ、荷元を買受け、直に御開港場所江相廻し候に付、御府内入津之荷物相減、諸色払底に相成、難儀致し候趣相聞候に付、当分之内左之通仰せ出され候。

 一 雑穀、 一 水油、 一 蝋、 一 呉服、 一 糸

 右之品々に限り、貿易荷物之分者、都而御府内より相廻し候間、在々より決而神奈川表江積出し候間敷候。尤も貿易の御仕法相改り候儀にはこれなく候間、御府内問屋ども方え積付け候荷物の内買取り、貿易致し候儀は苦しからず候」

 しかしながら各国から「江戸廻送令」は自由貿易を妨げると反発され、外国商人は横浜港での貿易を続けたこともあって国内の卸売業者も横浜港へ直接出荷を続けました。その結果、「江戸廻送令」の効果はありませんでした。しかしながら、攘夷運動が盛んになると江戸幕府も「江戸廻送令」を厳しく運用するようになり、生糸の輸出が減少するなどしました。元治元年(1864年)、四国艦隊下関砲撃事件が発生すると各国は「江戸廻送令」の廃止を強く求めました。開国の流れを止めることはできないと判断した幕府は「江戸廻送令」を事実上廃止したのです。

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