松平容保が会津松平家の養子になる|松平容保のおはなし
保科正之を家祖とする会津松平家は松平容敬の家督相続により代々続いてきた第2代征夷大将軍の徳川秀忠の男系の血筋が途切れました。しかし、容敬は容住の庶子とされていたことから江戸幕府の公式の記録としては容敬まで徳川秀忠の男系が続いたとされいます。
容敬の父の高須藩主の松平和義は天保3年(1832年)に57歳で死去しました。高須藩の家督は和義の次男で容敬の兄の松平義建が継ぎました。容敬には嫡男がいなかったため弘化3年(1846年)に義建の六男で自身の甥の松平容保を養嗣子とし娘の敏姫を嫁がせました。容保は和義の孫になります。
松平容保は天保6年(1835年)12月29日に江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で義建の六男(庶子)として生まれました。幼名は銈之允(けいのすけ)と称し、弘化3年(1846年)4月27日に10歳で会津藩第8代藩主の容敬の養子となりました。容保はすぐに会津には入らず江戸の和田倉門内の会津松平家上屋敷で育てられました。
この上屋敷で容保は会津松平家の当主となる英才教育を受けました。この教育によって容保は会津藩家訓による徳川家への忠誠心、神道に基づく皇室への尊崇、儒教に基づく正義と道理を教え込まれました。
嘉永5年(1852年)2月10日に容敬が死去し、同年2月15日に松平容保が第9代会津松平家当主・肥後守となりました。江戸幕府の記録では容保の家督相続で徳川秀忠の男系が途切れたとされています。
松平容敬の父ならびに松平容保の祖父にあたる松平義和は常陸国水戸藩の第6代藩主の徳川治保の次男です。会津松平家は容敬の代から水戸徳川家の血筋になったのです。容保は会津松平家で学んだことを行動規範として幕末・明治の激動の時代を生き抜いたのです。
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