新選組の局中法度
近藤勇や土方歳三など新選組の主要な面々はもともとは第14代征夷大将軍の徳川家茂の上洛の警護を目的として江戸幕府の清河八郎が募集した浪士組のメンバーでした。この浪士組には腕が立てば農民でも犯罪者でも応募することができました。しかしながら八郎は倒幕と尊皇攘夷の思想を持っており、浪士組募集の目的の将軍警護は表向きの理由で本当の狙いが倒幕と攘夷の実行部隊を集めることでした。浪士隊が京都の壬生に到着したとき攘夷のため江戸に戻る命令が出たため、浪士組の本当の目的が露呈し八郎に反発したものたちは京都に残りました。彼らは会津藩預かりとなり壬生浪士組と呼ばれるようになりました。壬生浪士組は「八月十八日の政変」で活躍、会津藩は「新選組」という隊名を授けました。
このような背景の新選組は血気盛んな浪士や志士が集まった烏合の衆の組織だったためまとまりがありませんでした。そこで組織の統制と秩序を保つために作られたのが「局中法度」です。新選組は京都の治安維持をしていたことから隊士たちの規律の乱れや不和が悪影響を与える可能性がありました。厳格な規律を設けることで新選組の組織体系を明確にしつつ隊士たちの行動を抑制し組織の結束を強化したのです。
当初の新選組には近藤勇らの試衛館派と芹沢鴨の水戸藩派から成りますが、「局中法度」を作成したのは試衛館派とされています。実際に試衛館の天然理心流の入門誓約書「神文帳」に内容が似ていると指摘があります。
新選組の局中法度は次の五箇条から成るの掟です。この掟が本格的に運用されはじめたのは近藤勇が局長、土方歳三が副長の体制となってからです。掟は厳格に運用され違反者は粛正されました。新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎に対しても「局中法度」が適用され暗殺しています。
一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為をしてはならない)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は許されない)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係してはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いをしてはならない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)
「局中法度」は子母沢寛が昭和3年(1928年)に「新選組始末記」で紹介して広く知られるようになりましたが、これを裏付ける一次資料は発見されていません。永倉新八は厳しい4つの掟があったと証言していることが西村兼文が明治22年(1889年)に「新撰組始末記」で言及しています。しかし「局中法度」という名称の掟ではありませんでした。土方歳三が元治元年(1864)10月に小島鹿之助に伝えた「軍中法度」をもとに子母沢寛が新選組の掟を「局中法度」と名付けたという説が有力です。
新選組の隊士は鳥羽・伏見の戦いまでの5年間に45人の死者が出ていますが倒幕派との戦いによる死者数はわずか6名でその他は切腹や暗殺によるものでした。掟が厳しく運用されていたことが伺えますが、すべての違反隊士が粛正されたわけではありません。謹慎のような処分もありましたし、阿部十郎のように脱走したにも関わらず後に許されて帰参した者もいます。
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