遠山の金さんの日(天保11年 1840年3月2日)
3月2日は「遠山の金さん」の日です。時代劇テレビドラマ「遠山の金さん」および「江戸を斬る」の主人公のモデルとして知られる江戸時代後期の実在の旗本の遠山景元が天保11年(1840年)3月2日に北町奉行に任命されたことに由来しています。
景元は長崎奉行をはじめ幕府の外交政策で活躍した遠山景晋の長男として寛政5年(1793年)8月23日〉に生まれました。父の景晋は永井直令の四男でしたが明和4年(1767年)に遠山景好と養子縁組し、天明6年(1786年)閏10月に遠山家を相続しました。遠山家は知行五百石の旗本で幕府から主要な役職を与えられる家柄ではありせんでしたが、景晋が能力が高く実家が永井家であったころもあり遠山家は幕府から信任される旗本となりました。
明和7年(1770年)、養父の景好に実子の遠山景善が生まれましたが景晋が遠山家を相続することになっていたため、景晋は寛政6年(1794年)7月に景善を養子としました。景晋の実子の景元は寛政5年(1793年)生まれですが景善が養子となった後の寛政6年(1794年)9月に出生届が提出されました。享和3年(1803年)に景元は景善の養子となりました。これによって景元は実父の景晋の孫となりました。このような事情から景元は家を出て江戸の町で放蕩生活をしたと伝えられています。景元が父の父の通称であった金四郎を名乗るようになったのは文化6年(1809年)とされています。
文政7年(1824年)に景善が亡くると景元は翌年に江戸幕府に出仕しました。徳川家の嫡男の徳川家慶の世話役を務めました。文政12年(1829年)に景晋が隠居し家督を相続しました。
景元は天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格、天保5年(1834年)西丸小納戸頭取、天保6年(1835年)小普請奉行、天保7年(1836年)に従五位下左衛門少尉の官位、天保8年(1837年)作事奉行、天保9年(1838年)勘定奉行と出生し、天保11年 1840年3月2日に北町奉行に就任しました。北町奉行の景元は老中首座の水野忠邦が開始した「天保の改革」(1841年~1843年)において庶民に対して身分不相応な贅沢を禁じましたが庶民の生活を脅かすような法令の実施には反対しました。
庶民の生活を守るため景元は南町奉行の矢部定謙とともに水野忠邦と対立することになりましたが、定謙は罷免され南町奉行には忠邦のもとで目付を努めていた鳥居耀蔵が就任しました。これによって景元は単独で忠邦と矢部と対立することになりました。寄席の全面撤廃に反対したり、芝居小屋の廃止に反対したりするなどして庶民の娯楽や生活を守るために奮闘しました。こうした景元の尽力に感謝した芝居小屋の関係者が景元を称賛する芝居「遠山の金さん」の上演を始めました。これにより庶民の間で北町奉行の遠山金四郎が善で、南町奉行所の鳥居耀蔵が悪という図式ができあがりました。景元はその後も極端に厳しい改革に反対し続けましたが、耀蔵の計略によって天保14年(1843年)2月に北町奉行を罷免され大目付となりました。表面上は栄転でしたが実質的には閑職へ追いやられたのです。
天保14年閏9月に忠邦が「天保の改革」の失敗の責任で罷免されると、耀蔵は改革反対派に寝返り南町奉行所の地位を守りましたが翌年に忠邦が復帰すると失脚しました。南町奉行には忠邦の弟の跡部良弼が就任しましたが忠邦の老中罷免により失脚しました。幕府は南町奉行に景元を就任させたのです。
遠山景元はその活躍により講談、歌舞伎、テレビドラマなどで桜吹雪の刺青を持つ正義あふれる奉行「遠山の金さん」として描かれました。実際には景元が入れ墨をしていたというのは伝承のみで確たる記録は残っていません。また町奉行の仕事は多岐にわたるためドラマのような裁きをしていたわけではありません。天保12年8月18日に将軍が裁判を上覧する「公事上聴」において第12代将軍の徳川家慶は景元の裁きを見て奉行の模範と称賛しました。これによって景元が名奉行と評価されるようになりました。水野忠邦らに反発しても北町奉行を解任されなかったこと、策略によって解任されたときも表向きは栄転となったこと、南町奉行に復帰することができたのは将軍からの高評価によるものだったと考えられています。景元は庶民のために尽力した正義感あふれる人物として、多くの人々に愛され続けています
遠山景元は嘉永5年(1852年)に家督を嫡男の景纂に譲り隠居しました。剃髪して帰雲と名乗り安政2年(1855年)2月29日に享年63歳で死去しました。景元は庶民のために尽力した正義感あふれる人物として現在も多くの人々に愛され続けています
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