西南戦争の田原坂の戦いが終結(明治10年 1877年3月20日)
明治六年の政変で下野した西郷隆盛は鹿児島に戻ると自宅で穏やかな日々を過ごしていました。明治政府は廃藩置県や地租改革を進め封建的な仕組みを次々と廃止していきました。これによって多くの士族が利権を失い失業しました。不平不満を持った士族たちは各地で反乱を起こしましたがことごとく新政府軍に鎮圧されました。やがて西郷隆盛を慕う血気盛んな者たちが鹿児島に集まるようになりました。
西郷隆盛と県令の大山綱良は彼らを指導する「私学校」を設立しました。西郷隆盛が私学校で教鞭をとることはありませんでしたが、私学校は軍事色の強い学校となり関係者の多くが鹿児島県の要職を務めるようになりました。鹿児島県は明治政府に対立する独立国のようになり新政府との間で西南戦争が起こりました。
明治10年2月15日、西郷軍1万3千人の部隊が上京するため鹿児島を出発しました。西郷軍は熊本城の熊本鎮台司令官の谷干城に軍勢を通過させるよう要請しましたが、谷干城はこれを拒否し籠城しました。西郷軍は熊本城を包囲し新政府軍との戦闘を始めました。
西郷軍は熊本城を支援するために進軍してくる新政府軍主力部隊を田原坂で迎え撃つことにしました。田原坂は博多と熊本を結ぶ道中にあり大砲を引いて通ることのできる唯一の道程でした。田原坂は標高が100 mほどの小丘陵でしたが、尾根伝いに曲がりくねっており防衛に適した地形でした。同年3月4日、新政府軍は田原坂へ進軍し「田原坂の戦い」が始まりました。長らく雨が続き泥濘になった過酷な環境の坂道で激しい戦闘が始まりました。
新政府軍の抜刀隊と西郷軍は昼夜を問わず入り乱れての白兵戦を繰り広げました。両軍一進一退の攻防となりましたが、西郷軍は新政府軍の最新兵器や圧倒的な兵力と物量に押され徐々に追い詰められていきました。同年3月20日、西郷軍は撤退を余儀なくされ新政府軍はついに田原坂を占領しました。 「田原坂の戦い」は新政府軍が西南戦争に勝利する転換点となりました。
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