吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)
長州藩士の吉田松陰は江戸で佐久間象山などから西洋の学問や技術の重要性を学び国内外の情勢に関心を持っていました。嘉永5年(1852年)、松陰は交流のあった肥後藩の宮部鼎蔵らと東北を見聞する旅に出ました。このとき松蔭は長州藩の通行手形を得る前に出発しました。この行為は脱藩と見なされました。翌年、旅行から戻った松蔭は罪に問われて士族の身分を剥奪され世禄を没収されました。
嘉永6年(1853年)、松蔭は学問を続けるため江戸に赴きました。同年6月、浦賀にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航しました。松陰は師の佐久間象山と望遠鏡で黒船を見物し西洋の文明が日本より遙かに進んでいることに感銘を受けると同時に日本の将来に危機感を持ちました。象山は松蔭に外国に留学することを勧めました。当時、日本人が海外に渡航することは禁止されていたため外国留学は密航にあたりました。
海外留学の機会を伺っていた松陰は同年7月にロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が艦隊を率いて長崎に来航していることを知り弟子の長州藩士の金子重之輔と長崎に向かいましたが、彼らが長崎に到着したのはロシア艦隊が長崎を出港した後でした。そのため松陰は海外留学を果たせませんでした。
【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)
嘉永7年(1854年)、ペリーの艦隊が再び来航し横浜で日米和親条約が締結されました。
【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)
その後、艦隊が下田に移動すると松陰は重之輔と下田に向かいました。同年3月25日夜、松陰と重之輔は下田の柿崎の稲生沢川口から小舟を漕ぎ出しましたが悪天候と高波により引き返しました。27日に上陸していた米国士官に渡航を嘆願する「投夷書」と「別啓」を渡しました。「投夷書」は漢文で書かれておりその内容は「外国渡航が禁じられているが世界を見たい。密航が知られると殺されるので人道的に乗船させて欲しい」という主旨のものでした。また「別啓」は「投夷書」の要約で「認めてくれるなら海岸に迎えにきて欲しい」と書かれていました。
松陰と重之輔はその日の夜に艦隊を訪れることを計画し翌28日午前2時頃、弁天島近くから小舟を漕ぎ出し沖合に停泊している艦隊へ向かいました。最初はミシシッピー号に漕ぎ着けましたが通訳がいなかったため旗艦ポーハタン号に向かいました。
ポーハタン号に乗り込んだ2人はは通訳官サミュエル・ウィリアムズと筆談し渡航を懇願しました。ウィリアムズは2人の海外渡航の強い要望を理解しましたが、日米和親条約を締結しているため海外密航を幇助することはできないと答えました。近い将来に海外渡航が許されるようになるはずだからそれまで待つようにと諭され2人は海外渡航を諦めました。
28日早朝、2人は小舟で福浦海岸まで送り届けられました。密航しようとしたことがばれると考えた松陰と重之輔は自首し下田奉行所で取り調べを受けた後に江戸小伝馬町の獄に送られました。江戸で裁きを受け身柄は萩藩へ引き渡され蟄居を命じれました。本来であれば海外密航は死罪に当たりますが、2人の処分が蟄居で済んだのはペリーが2人の思いを理解し幕府に寛大な処分を求めたからと伝えられています。
松陰は萩の野山獄に投獄されましたがまもなく実家の杉家預かりとなりました。安政4年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ杉家の敷地に松下村塾を開塾します。この松下村塾では、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など後に明治維新の立役者となる志士たちを教育しました。
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