保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし
「会津藩と保科正之|松平容保のおはなし」の続き
会津松平家の家祖は第2代将軍の徳川秀忠の四男で保科家の養子となった保科正之です。正之は寛文9年(1669年)に隠居し家督を四男の正経に譲りました。第2代藩主となった正経は子が女児1人しかおらず本人も病弱だったため延宝8年(1680年)に末弟で正之の六男の正容を養嗣子としました。
保科正容は天和元年(1681年)に正経が享年36歳で死去すると家督を継ぎ第3代藩主となりました。元禄9年(1696年)12月9日、松平姓と三つ葉葵の紋を永代使用することを許され徳川一門(御家門)となりました。以降、会津藩主は松平姓を名乗り名実ともに会津松平家となりました。
松平氏は三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の小豪族でした。戦国時代の当主の松平元康は織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取ると今川家から独立し、名を家康と改め、さらに官位を得るために出自を明確にするため姓を徳川に改ました。このとき家康は自身を松平家の中で別格の存在とするため、その他の松平家は改姓させませんでした。つまり家康は松平家を徳川家の家臣「譜代」の位置づけとしたのです。
【参考】松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)
家康は信長と同盟を結び頭角を現しましたが「本能寺の変」で信長が暗殺されると豊臣秀吉に仕えました。秀吉が死去すると「関ヶ原の戦い」で石田三成を破り天下統一を果たして征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。家康は徳川姓と松平姓を使い分けながら強固な幕藩体制を作り上げました。
【参考】徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)
徳川を名乗ることができたのは江戸幕府将軍を世襲する徳川家と御三家・御三卿などの徳川家の限られた親族のみでした。一方、松平を名乗ったのは三河時代の松平家、将軍家をはじめとする徳川家から分家した親族、御連枝、将軍より特別に松平姓を与えられた徳川家や松平家の非一族の大名家です。幕末には徳川家は12家、松平家は29家が存在していました。明治維新後は徳川家と松平家は華族となりましたが、非一族の松平家と分流の松平家の一部は本姓に戻しています。
さて会津松平家の家祖の保科正之は第2代将軍の徳川秀忠の四男として生まれましたが庶子のためその出生を知っていたのは秀忠と側近に限られていました。異母兄の徳川家光も正之の存在を知りませんでした。家光は正之と出会うと正之を気に入り重用するようになりました。
正之は家光の遺命により第4代将軍の徳川家綱の後見人となり幕政を支え正四位下・左中将を叙されました。徳川将軍家は正之に松平姓を名乗るように申し伝えましたが、正之は自身を養育してくれた保科家に恩義があるとして生涯保科姓を名乗り続けたのです。第2代藩主の正経も保科姓のまま他界しています。こうして会津松平家が松平を名乗り三つ葉葵の紋を使い始めたのは第3代藩主の松平正容からとなったのです。
なお徳川家の三つ葉の葵は御三家・御三卿・松平家でそのまま使用されたわけではなく家によって若干意匠が異なります。会津松平家の家紋は会津三葵と呼ばれています。
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