正力松太郎が読売新聞を買収(大正13年 1924年2月25日)
読売新聞というと読売新聞社の社主および読売ジャイアンツの初代オーナーで日本テレビの創業者でもあった正力松太郎氏が育てた新聞として知られています。そのようなことから正力松太郎氏が読売新聞社の創業者と思っている人もいるかもしれません。実際には読売新聞は正力松太郎が誕生した明治18年(1885年〉よりもずっと以前に創業されています。
読売新聞は明治7年(1874年)11月2日に読売新聞社の前身の日就社によって「讀賣新聞」として創刊されました。「讀賣」とは江戸時代に瓦版を独特の面白い言い回しで読み上げて販売をしていた販売員「讀賣」のことです。この「讀賣」に因み「讀賣新聞」と名付けられました。創刊号は1枚の紙で表裏2ページでした。創刊号の発行部数は200部とされていますが実際に売れたのは半分以下だったようです。
以降は隔日発行されました。庶民を読者対象とし漢字によみがなを降るなどの工夫により部数を伸ばし、明治8年(1875年)には日刊紙となりました。同年末には発行部数は1万7千部にもなりました。その後も順調に発行部数を伸ばしました。尾崎紅葉作の小説「金色夜叉」の連載が始まったのは明治30年(1897年)1月1日です。
【参考】「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)
大正6年(1917年)12月1日、 「日就社」は社名を「読売新聞社」に変更、大正8年(1919年)1月5日には創刊号から数えて15,000号の発行を達成しました。発行部数も順調に伸ばし1920年代初頭には13万部となっていましたが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により読売新聞社の社屋が炎上し発行部数が5万部にまで落ち込み経営状況は危機的状況となりました。
正力松太郎は明治44年(1911年)に東京帝国大学法学部を卒業し内閣統計局に入りました。大正2年(1913年)に警視庁に警察官として入るとみるみるうちに出世し大正10年(1921年)には警視庁官房主事となりました。
大正12年(1923年)12月27日、東京府東京市麹町区虎ノ門外において後に昭和天皇となる皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた「虎ノ門事件」が発生すると、当時警視庁警務部長の任にあった正力松太郎は暗殺未遂事件を事前に防ぐことができなかったとして引責辞職しました。
大正13年(1924年)2月25日、正力松太郎は関東大震災後の経営難に直面していた読売新聞社を買収し第7代社長に就任しました。このとき上司だった内務大臣の後藤新平が引責辞任となった正力松太郎のために自宅を抵当に入れて資金を調達しました。正力の社長就任で読売新聞社は現在に至る発展を遂げました。なお、正力松太郎は後藤新平に借金を返済しようと考えていましたが事業が成功し返済の目処がたったときには後藤新平はこの世を去っていました。正力松太郎は恩返しのため後藤新平の故郷の岩手県胆沢郡水沢町に借金の2倍の額を寄付したそうです。水沢町はこの寄付金で昭和16年(1941年)に後藤伯記念公民館を建設、これが日本初の公民館となりました。
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