樺太開拓使が設置される(明治3年 1870年2月13日)
安政元年(1854年)12月21日(新暦1855年2月7日)に伊豆の下田(静岡県下田市)の長楽寺で日本とロシア帝国の間で日露和親条約が締結されました。この条約により千島列島は択捉島と得撫島(ウルップ島)の間が国境となり、樺太は国境を設けず従来通り両国民の混住地となりました。幕府は箱館奉行に樺太開拓を担わせましたが、樺太に移民する日本人はおらず出稼ぎの人々を派遣する程度でした。それに対してロシアは流刑人を送ったり軍隊の基地を設置するなど積極的に樺太を実効支配する政策を採りました。
文久元年(1861年)、江戸幕府の勘定奉行の竹内保徳は列強との修好通商条約の計画延長の交渉のため文久遣欧使節を率いて欧州を訪れました。文久遣欧使節の目的には、ロシアとの樺太国境画定交渉も含まれていましたが交渉は合意に至りませんでした。
【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)
ロシアが実効支配を進める中で箱館奉行の小出秀実は樺太の国境画定が急務であることを幕府に建言しました。慶応2年(1866年)8月、幕府は小出秀実を外国奉行に任じてロシアに派遣し交渉に当たらせましたが条件が折り合わない状態で慶応3年(1867年)2月25日に日露間樺太島仮規則が調印されました。結果的には条件は折り合わず樺太は両国民の混住地となりました。
明治維新後に開拓使が設置されると樺太は開拓使の管轄となりました。箱館裁判所時代から樺太の行政は現地の久春古丹で岡本監輔が執っていました。この頃には日本人の入植者が約500人いましたが、さらなる移住を進めるため好条件を提示しても応募する者はいませんでした。この間にもロシアの実行支配は着々と進み、岡本監輔は東京に赴き樺太の状況を報告しました。
政府は樺太の状況に危機感を抱き、明治3年(1870年)2月13日に樺太の管轄を開拓使から分離し、専任の樺太開拓使を設置し久春古丹の公議所を樺太開拓市庁としました。同年5月9日、黒田清隆が開拓使次官に任命され樺太専務となりました。黒田清隆は樺太の視察に赴きロシアと会談し目下の問題を解決しました。黒田清隆は東京に戻り政府に樺太はあと3年しか持たないと報告し北方開拓を本格化する建議書を提出しました。これによって開拓使十年計画が策定され北海道開拓が進みました。黒田清隆は樺太より北海道開拓に力を入れ樺太開拓使は明治4年(1871年)8月7日に廃止されました。
なお樺太の国境問題については特命全権大使を努めた榎本武揚が明治8年(1875年)5月7日に締結した「樺太・千島交換条約」によって決着しました。これによって樺太はロシア領となり、得撫島以北の千島列島全てが日本領となりました。また明治38年(1905年)の日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」で南樺太は日本領となりました。
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