明治政府が敵討禁止令を公布(明治6年 1873年2月7日)
敵討(仇討ち)とは主君、師匠、目上の近親者を殺害された者が私刑として殺害した者を討ち取り復讐を果たすことです。最古の敵討は「日本書記」に記載のある安康天皇3年(456年)の「眉輪王の変」とされていますが、敵討が慣習となったのは武士が頭角を現すようになった中世期頃と考えられています。
江戸時代には敵討は法で認められていました。敵討をすされる者が藩に届け出をして許可を得ると実行することができました。江戸時代や明治時代初期には敵討は美談とされましたが、明治維新後は法律による裁きが重視されるようになりました。
明治元年(1868年)、明治新政府は将来の法律改正を前提に従来の法の踏襲した仮刑律を制定しました。この仮刑律では敵討は従来通り認められていました。明治2年(1869年)、刑法官判事試補の鈴木唯一が公議所に「刑法ヲ待タズ、私ニ人命ヲ絶ツヲ禁止スルノ議」を建議したことがきっかけとなり敵討の是非が論じられるようになりました。当初は賛否両論が対立しましたが敵討を禁止とする意見が優勢となりました。
明治6年(1873年)2月7日、佐賀藩士で司法卿の江藤新平がまとめた太政官布告第37号「敵討禁止令」が公布され敵討が禁止されました。主君や近親者を殺害された者の訴えを精査し国家が法律に基づいて被害者に代わって加害者を処罰することになりました。敵討の条文が法典から完全に削除されたのは明治13年(1880年)の刑法からです。
江藤は「敵討禁止令」が公布される前の同年1月24日に司法省予算削減に抗議し司法卿の辞表を提出しています。江藤は立法・行政・司法を独立させる「三権分立」をはじめとする司法制度の整備を進めた功績から「近代日本司法制度の父」と呼ばれています。その後、江藤は参議となりますが「明治6年の政変」で西郷隆盛の征韓論を支持し下野しました。明治政府の佐賀藩に対する強硬な対応に反発した士族の反乱「佐賀の乱」の首謀者として法の裁きを受け処刑されました。
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