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2025年2月21日 (金)

徳川秀忠の男系が途切れる|松平容保のおはなし

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保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし」の続き

 元禄9年(1696年)12月9日、第2代征夷大将軍の徳川秀忠の四男(庶子)の保科正之(まさゆき)を家祖とする会津藩の第3代の保科正容(まさかた)が幕府から松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を認められと正容は松平正容と改姓しました。以降、会津藩は名実ともに会津松平家となりました。

徳川秀忠
徳川秀忠

 保科正之には長男の幸松、次男の正頼、三男の将監がいましたがいずれも早世しており跡を継いで第2代藩主となったのは四男の保科正経(まさつね)でした。その正経も病弱であり嫡子がいなかったため正之の六男で実弟の正容を養嗣子としました。天和元年(1681年)に正経が隠居すると松平正容が家督を継ぎました。会津松平家となった以降、藩主の名には「容」の偏諱を拝しました。

 享保16年(1731年)、正容が藩主在職中に死去しました。長男の正邦、三男の正甫がいましたが死去していため、同年に八男の松平容貞(かたさだ)が家督を継ぎました。 会津松平家の財政は正容の代から厳しい状況となり多額な借金を抱えていました。年貢の増徴により農民の間で不満が高まり、、寛永2年(1749年)に農民一揆「会津寛延一揆」が起こりました。容貞は同年の年貢を半減することで一揆を鎮めました。

 寛延3年(1750年)に容貞が享年27歳で死去すると長男の松平容頌(かたのぶ)が家督を継ぎました。容頌の代に「天明の大飢饉」が起こり会津松平家の財政は破綻寸前となりました。容頌は田中玄宰を家老として登用し藩政改革に当たらせました。藩政を倹約し荒廃した農地を復興させ特産品の製造・販売に力を入れたことにより財政の再建を成し遂げました。

 容頌は嫡子がいなかったため第3代藩主の正容の九男の容章の長男で従弟にあたる松平容詮(かたさだ)を養嗣子としていましたが家督を継ぐ前に死去したことから、文化2年(1805年)に容詮の長男の松平容住(かたおき)が家督を継ぎました。容住も玄宰と藩政改革を進めましたが藩主となって在任わずか5ヶ月の文化3年(1806年)に享年28歳で死去しました。

 容住の長男は早世していたため容住の次男の松平容衆(かたひろ)が家督を継ぎました。このとき容衆はわずか3歳でした。会津松平家は男子が早世することが多く、容頌、容詮、容住が立て続けに死去し幼少の容衆が藩主となったこともあり後継者問題を抱えていました。幼児の死亡率が高いことを懸念した家老の玄宰は万一のときに備えて容衆の跡継ぎを探しました。同じ頃、常陸国水戸藩の徳川治保の次男の松平義和が尾張藩連枝の高須藩を継ぐことになると庶子であった三男の扱いが問題となりました。玄宰はこの三男を会津藩に引き取りたいと申し出でました。こうして三男は会津藩に密かに引き取られました。

 三男は容住の死去後に容衆の異母弟の容敬(かたたか)として幕府に届けられました。玄宰の懸念は的中し容衆は文政5年(1822年)に享年20歳で死去しました。容衆には嫡子がいなかったために松平容敬が家督を継ぎ第8代藩主となりました。

松平容敬
松平容敬

 容敬は容住の庶子として幕府に届けられていますが実際には松平義和の子ですから保科正之から脈々と引き継がれた徳川秀忠の男系は容衆で断絶していることになります。ただし公式上は会津松平家の徳川秀忠男系は容敬まで続いたとされています。

徳川秀忠男系 会津松平家系譜
徳川秀忠男系 会津松平家系譜

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