武市熊吉|喰違の変(1874年1月14日)
戊辰戦争が終結し国内の混乱が収まると明治政府は政治の改革を進めました。また列強との不平等条約の改正の外交交渉や諸外国の見聞のため政府は明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団をアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の計12ヶ国に派遣しました。 岩倉使節団には岩倉具視をはじめとして大久保利通や木戸孝允など明治維新を主導した多くの首脳が参加したため、この間に臨時政府として留守政府が組織されました。留守政府は太政大臣三条実美、参議の西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平、大木喬任らが加わりました。この間に日本と李氏朝鮮との関係が悪化し、留守政府は朝鮮を征討するため征韓論を主張するようになりました。ところが帰国した岩倉具視らは征韓論に反対し阻止しました。
「明治六年政変」により西郷隆盛や板垣退助をはじめとする征韓派参議が明治6年10月に下野すると、彼らと行動をともにしていた総勢約600人の政治家、官僚、軍人が辞職しました。多くの重要人物が政権から離れたため明治政府は大きな影響を受けました。
廃藩置県後、自分たちの活躍する場を失い身分が危うくなっていた不平士族たちは明治政府に対して不満を募らせていました。征韓により武士の活躍の場ができると考えていた西郷隆盛が下野すると、彼らは政府に対する不満をいっそう高めるようになりました。また征韓派の士族は日本との国交を拒否する朝鮮を放置することは皇国の恥辱になるとし「明治六年政変」は岩倉具視と大久保利通の陰謀と考えるようになりました。
土佐藩士の武市熊吉は幕末に同郷の板垣退助と行動を共にしました。戊辰戦争においては板垣退助の部下として各地を転戦し新政府軍の勝利に貢献しました。東山道先鋒官軍と甲陽鎮撫隊(旧新選組)の「甲州勝沼の戦い」では板垣退助に命じられて敵情を斥候し戦を有利に進めるきっかけを作りました。明治時代になると武市熊吉は外務省で働いていましたが西郷隆盛と板垣退助が下野すると同年11月に辞職しました。当日、武市熊吉は弟の武市喜久馬と土佐藩士の中西茂樹に政変の経緯について説明しました。これを聞いた2人は直ちに岩倉具視を暗殺すると主張しましたが、武市熊吉は時期尚早と反対しました。3人は岩倉具視の暗殺の機会を伺うことにしました。同年12月、武市熊吉のもとに多くの同志が集まり始めました。そして武市熊吉、武市喜久馬、中西茂樹、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、澤田悦彌太の土佐藩士9人は岩倉具視の動静を探り暗殺計画を立てました。
明治7年(1874年)1月14日午後4時頃、中西茂樹と中山泰道が外桜田(千代田区日比谷霞が関)で岩倉具視の馬車を発見しました。中山泰道はその場に待機し、中西茂樹が人力車で追跡し馬車が赤坂仮皇居(迎賓館赤坂離宮)に参内したところを見届けました。報告を受けた武市熊吉は岩倉具視の暗殺の機会が到来したとし実行に移すことを決断しました。9人の土佐藩士は襲撃場所を赤坂仮皇居(迎賓館赤坂離宮)正面の江戸城の喰違門(見附)とし隊を分けて異なる足取りで喰違門(見附)に向かいました。
喰違門(見附)に終結した彼らは身を隠し岩倉具視が現れるのを待ちました。午後7時頃に赤坂仮皇居より人力車が出てきたため山崎則雄と中山泰道が人力車を追跡しました。残った7人の土佐藩士は喰違門(見附)で見張りを続けました。午後8時前、赤坂仮皇居より馬車が出てきました。7人は馬車の様子を見て岩倉具視が乗っていることを確信し襲撃の機会を待ちました。馬車は7人の土佐藩士が隠れていた喰違門(見附)へ向かってきました。馬車が喰違門(見附)の土塁あたりまでやってきたとき、7人の土佐藩士は「国賊!」と言い放ちながら飛び出して馬車を襲撃しました。中西茂樹が馬丁を襲って馬車を止め、岩田正彦が馬車の背後から刀を突き刺しました。すると馬車の中から岩倉具視が転がり落ちてきました。岩田正彦は手負いとなった岩倉具視を追いかけましたが、岩倉具視はそのまま水堀に飛び込んでしまいました。
岩田正彦から岩倉具視が水堀に飛び込んだことを聞いた武市熊吉らは通りかかった僧侶と娘が持っていた提灯を奪い探索を始めました。しかしながら岩倉具視を見つけることはできませんでした。この水堀は高さ10メートル以上あり、襲撃当日は1月半ばで堀の水も極めて冷たくなっており、ここに落ちて助かるものはないと考えられました。間もなく人力車を追跡していた山崎則雄と中山泰道が戻り、9人の土佐藩士は岩倉具視は水堀に転落して死亡した信じて襲撃現場を去りました。その日の晩、9人の土佐藩士は祝杯を挙げたそうです。
襲撃現場では9人の土佐藩士が去ると水堀の中から手負いの岩倉具視が這い出してきました。岩田正彦の刀は岩倉具視に致命傷を与えることはできていなかったのです。水堀から出てきた岩倉具視は極寒で危機的な状態となりましたが無事に救出されました。翌日、この事件が伝えられ岩倉具視が無事だったことを知った9人の土佐藩士は暗殺が失敗したことを知り落胆しました。
警察は岩倉具視の暗殺未遂の捜査を始まましたが有力な手がかりはありませんでした。現場には武市熊吉が置き去りにした下駄が落ちていました。警察はこの下駄の外観から犯人は地方出身者と考えられ、岩倉具視を狙ったことから犯人像は政府に不満を募らせた征韓論派の士族としました。つまり犯人は西郷隆盛の出身の薩摩藩士か板垣退助の出身の土佐藩士に絞られたのですが個人を特定するまでには至りませんでした。
警察は事件当日に犯人に提灯を奪われた僧侶と娘に聞き込みを行い薩摩弁と土佐弁を聞かせてみましたが、2人はどちらの方言も聞き覚えがなく犯人の特定には繋がりませんでした。しかしながら人力車夫の証言により犯人が土佐人であることが特定されるとやがて武市熊吉が捜査線上に浮上し同年1月17日に身柄を拘束されました。そして残りの8人の土佐藩士も逮捕されました。
警察は9人の土佐藩士に対して厳しい取り調べを行い首謀者を特定しようとしました。誰もが岩倉具視の暗殺は全員で実行したと答えましたが、厳しい拷問の中で武市熊吉は仲間を案じて自分が首謀者であるこを自白しました。また自白の背景には判事が速やかに自白するならば顔が立つように取り計らいをするとし死罪といえども武士として切腹で最期を迎えることを約束したのです。
ところが事件から半年後の同年7月9日に判決が申し渡され9人の土佐藩士は除族されたうえで斬首となりました。9人の土佐藩士はこの判決に対して死罪は受け入れたものの士族の身分を剥奪された除族については判事に裏切られたと憤慨しました。9人の土佐藩士は武士として最期を迎えたかったのです。政府はこれを許さず刑は当日執行されました。
刑の執行前に9人の土佐藩士はお互いの顔を見て笑みを浮かべていたと伝えられています。それは自分たちが行ったことは正しかったというお互いの再確認だったのかもしれません。
竹市熊吉の辞世の句は「八つ裂に 成る身は更にいとはねど 心にかかる 大君の御代」でした。自分たちはどうなっても皇国の未来を案じながら死にゆくことを記しています。この事件は襲撃現場から「喰違の変」と呼ばれるようになりました。
「喰違の変」で命を落とした武市熊吉ら9人の土佐藩士に同情した不平士族は少なくありませんでした。西郷隆盛、板垣退助とともに下野した江藤新平は明治7年(1874年)2月1日に「佐賀の乱」を起こしています。また明治9年10月24日には熊本で旧肥後藩の士族が「神風連の乱(敬神党の乱)」を起こしています。これに呼応して旧福岡藩の支藩の旧秋月藩の士族が同年10月27日に「秋月の乱」を起こしました。西郷隆盛も「西南戦争」により明治11年(1877年)9月24日に最期を迎えています。明治11年(1878年)5月14日には「紀尾井町事件」で大久保利通が征韓派の石川県士族の島田一郎を首謀者とする士族らに暗殺されています。
嘉永6年(1853年)6月3日のマシュー・ペリー提督の黒船来航により日本の政治は大混乱しました。尊皇攘夷と倒幕を合い言葉に江戸幕府軍や旧幕府軍と戦った新政府も内戦が終わってしまえば意見が対立し決して一枚岩ではなかったのです。かつて仲間同士だったものが袂を分かち戦い多くの優秀な人材が失われました。新しい時代を迎える代償として多くの犠牲を出したのが明治維新です。
襲撃現場の喰違門跡には土塁や堀がほぼ当時のまま残されています。岩倉具視が飛び込んだ水堀は現在は埋め立てられて上智大学真田堀グラウンドになっており上智大学弓道場洗心道場がありますが喰違門跡前の道路とグランドの地面の高低差を確認できます。岩倉具視がいかに高い位置から飛び込んだことがわかります。
【関連記事】
・「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱
・「神風連の乱(敬神党の乱)」勃発(1876年10月24日)|明治政府に対する士族の反乱
・「秋月の乱」の秋月党が挙兵(1876年10月27日)|明治政府に対する士族の反乱
武市らが起こした「喰違の変」が一つの契機となって、1877年(明治10年)の「西南戦争」や1878年(明治11年)の「紀尾井町事件」など、不平士族たちの反乱が巻き起こりました。
武市に関する史跡や遺物はほとんど伝わっていません。
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