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2025年1月23日 (木)

坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

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 慶応2年(1866)年1月21日に薩長同盟が成立。坂本龍馬は同年1月23日に護衛の長府藩士である三吉慎蔵(みよししんぞう)と定宿していた京都伏見の寺田屋に戻りました。龍馬は桂小五郎と西郷隆盛による薩長同盟の成立の顛末を慎蔵に説明し祝杯を交わしたと伝えられています。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)

坂本龍馬 三吉慎蔵
坂本龍馬(左)と三吉慎蔵(右)

 当時、伏見の京橋は京都と大坂を結ぶ過書船が荷の揚げ降ろしと旅客の乗降をする船着き場として栄えていました。そのため多くの宿屋が建ち並び寺田屋もそのひとつでした。坂本龍馬が寺田屋を定宿とたのは寺田屋が薩摩藩の指定宿だったからです。寺田屋では文久2年(1862)に薩摩藩志士の粛清「寺田屋事件」が起きています。

  【参考】寺田屋事件こと薩摩藩志士粛清事件(1862年4月23日)

 寺田屋には宿を1人で切り盛りする面倒見の良いお登勢という女将がいました。龍馬をはじめとする多くの志士たちがお登勢を懇意にしていました。元治元年(1864年)、龍馬はお登勢に恋仲で身寄りのない楢崎龍を寺田屋で預かってもらうよう頼み込みました。お登勢は龍馬の願いを聞き、お龍はお春という名前でお登勢の娘分となり寺田屋で住み込みで働くことになりました。

寺田屋の女将のお登勢 楢崎龍
寺田屋の女将のお登勢と楢崎龍

 龍馬は文久2年(1862年)に幕府政事総裁職の松平春嶽の紹介により幕府軍艦奉行並の勝海舟と出会っています。龍馬は海舟に心服し海舟が開いた神戸海軍操練所の海軍塾塾頭を努めました。しかしながら倒幕派と尊皇派が対立し幕政が混乱する中で海舟と龍馬の幕府における立場が危うくなりました。海舟の紹介で薩摩藩との関係を深めていた龍馬の行動は問題視されるようになり倒幕派につながる要注意人物と見なされるようになりました。

 慶応2年(1866年)1月23日、龍馬が慎蔵と寺田屋に戻ると伏見奉行所に連絡が入りました。伏見奉行の肥後守の林忠交は龍馬の捕縛を命じ、同日深夜2時頃、伏見奉行所の役人と捕り方が寺田屋を包囲しました。この異変に気がついたのが入浴中のお龍でした。龍馬の危機を悟ったお龍は裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬と慎蔵に異変を知らせました。伏見奉行所の役人が龍馬が慎蔵に詰問すると2人は薩摩藩士と詐称しました。しかしながら、役人は肥後守の上意として捕り方に龍馬らの捕縛を命じました。

 龍馬は高杉晋作から譲られた拳銃スミス&ウェッソン・モデル2を発砲、慎蔵は手槍を振るって防戦しました。2人は捕り方2名を射殺し数人を殺傷しました。しかしながら多勢に無勢で龍馬は左右の手の親指を切られ拳銃を扱えなくなりました。

ミス&ウェッソン・モデル2
ミス&ウェッソン・モデル2

 慎蔵が必死に防戦しているとお龍が裏木戸に置いてあった大きな石がのった漬物槽を力任せにどかして龍馬らを逃しました。龍馬らは寺田屋を脱出し材木屋に身を隠しました。龍馬が動けなくなると護衛役の慎蔵は責任を感じ切腹しようとしました。しかし龍馬はこれを制止し薩摩藩邸に救援を求めに行くよう命じました。慎蔵はその場に龍馬を残して薩摩藩伏見屋敷に向かいました。

 慎蔵の報告を受けた薩摩藩邸留守居役の大山彦八は藩士3名をつれて川舟で救出に向かいました。これによって龍馬は薩摩藩に救出され九死に一生を得ました。ことの顛末は直ちに京都の西郷隆盛に報告されました。隆盛は薩摩藩士の吉井友実を伏見に派遣し情勢を探らせました。また軍医を薩摩藩邸に派遣し龍馬の治療と警護を命じました。

 翌日、伏見奉行は薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが薩摩藩はこれを拒否しました。その後、龍馬とお龍と慎蔵は西郷隆盛の勧めで京都から逃れ薩摩藩の船で大阪から脱出しました。 慎蔵は下関で下船し情勢を報告するため長府藩に戻りました。龍馬はお龍と鹿児島に逃れ隆盛の紹介で湯治などをしながら旅をして過ごしました。この龍馬とお龍の旅が日本人として初めての新婚旅行とされています。龍馬が受けた傷は深く以降の写真撮影では龍馬は左手を隠していることが多いという指摘があります。

 さて寺田屋遭難に新選組が関わったという言い伝えもありますが、これは伏見奉行の林忠交の肥後守と京都守護職の松平容保の肥後守が誤認され、容保の配下の新選組が関与したと誤った説が流布されたものです。龍馬も慎蔵も伏見では新選組に捕縛されておらず嫌疑は受けていませんでした。伏見奉行は薩摩藩士を詐称する浪人が寺田屋に出入りしていることから目を付けたようです。

 第二次長州征討が始まると慎蔵は長府藩の報國隊軍監として高杉晋作指揮のもと長州藩の奇兵隊と幕府軍と戦いました。この戦には龍馬も参加しています。このときお龍は長崎の豪商の小曽根英四郎のもとで過ごしました。第二次長州征討後、龍馬は亀山社中(後の海援隊)の拠点を下関に置きお龍を呼び寄せています。龍馬とお龍は下関での生活を楽しみましたが下関が龍馬とお龍の最後に過ごした場所となりました。

 龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において暗殺されていますが、襲撃は新選組によるものではなく京都見廻組によるものでした。この襲撃は龍馬が「寺田屋遭難」で伏見奉行所の捕り方を殺害したことに対する公務執行とされています。これは箱館戦争後に元京都見廻組今井信郎が自供したものです。

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