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2025年1月28日 (火)

天正遣欧少年使節が長崎港を出港(天正10年 1582年1月28日)

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 イエズス会司祭のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは1573年にイエズス会東インド管区の巡察師に任命されインドや中国をはじめとする東洋での宣教活動の視察を命じられました。ヴァリニャーノが東洋の東端の島国である日本の肥前国口ノ津港(長崎県南島原市)に到着したのは天正7年(1579年)7月25日です。ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ既にキリシタン大名であった大友宗麟や高山右近と謁見しました。天正9年(1581年)には織田信長に謁見していますが、このとき黒人に興味をもった信長に黒人奴隷を献上しています。この黒人は弥助と名付けれれ本能寺の変で信長が暗殺されるまで仕えました。

イエズス会司祭 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会司祭 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

 当時、日本における布教はポルトガル人準管区長のフランシスコ・カブラルが担当していました。日本人に対する偏見が強かったカブラルは日本人の司祭や修道士の育成は必要ないと考えていました。ヴァリニャーノはカブラルのやり方では日本での布教は進まないと考えカブラルに改善を要求しましたがカブラルが従わなかったため天正10年(1582年)にカブラルを辞職させました。

 日本人を高く評価していたヴァリニャーノは日本人の司教と修道士を育成し、日本人の文化に適応させた宣教活動を行わせる方針を採っていました。司祭育成のため天正8年(1580年)には肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)にセミナリヨ(小神学校)を設立しています。これを足がかりに同年に豊後臼杵にノビシャド(修練院)、天正9年(1581年)に豊後府内(現:大分県大分市)にコレジオ(大神学校)を設立しています。当時の九州地区はキリシタン大名の大友宗麟の庇護のもとで日本におけるキリスト教布教の拠点として多くの宣教師と信者がいました。

 ヴァリニャーノの活躍によって日本におけるイエズス会の信者は急増しましたが、すべての施設で多額の資金が必要となり財政難に陥りました。長崎を支配していた大村純忠がキリシタン大名に改宗すると長崎港で南蛮貿易を行う権利を獲得しました。これにより財政は改善しましたがローマの本部は長崎の支配を一時的にするよう厳重に注意しました。ヴァリニャーノは巧に知らぬふりをして貿易を続け、長崎港はイエズス会の管理下となり要塞化されていきました。

 ヴァリニャーノはローマ教皇やスペインとポルトガルの国王に日本における宣教活動を理解してもらい経済的、精神的な支援を要請することにしました。また日本人の信者にヨーロッパのキリスト教世界を見聞させ布教に役立たせようと考えました。そのため大村純忠に天正遣欧少年使節の派遣を提案しました。大村純忠はこの提案を受け入れました。

 天正遣欧少年使節に選ばれたのは肥前有馬のセミナリヨで学ぶ13~14歳の4人の少年でした。主席正使および大友宗麟の名代として伊東マンショ(伊東満所)、正史および大村純忠の名代として千々石ミゲル(千々石 紀員)、副使として中浦ジュリアン(中浦寿理安)、副使として原マルティノの4名が天正遣欧少年使節としてローマに赴くことになりました。またヴァリニャーノをはじめとするイエズス会神父や印刷技術を学ぶ日本人など8名が髄員として選ばれました。

天正遣欧使節の肖像画
天正遣欧使節の肖像画

 天正10年(1582年)1月28日、天正遣欧少年使節は長崎港からローマへ向かって旅立ちました。中国のマカオ、マレーシアのマラッカ、インドのコチンとゴアに寄港しました。ヴァリニャーノはゴアに残り別行動となりました。

 天正12年(1584年)7月5日にポルトガルのリスボンに到着しました。ここでアルベルト・アウストリア枢機卿の王宮に招かれました。同年10月23日にはスペインの首都マドリードで国王フェリペ2世に歓迎されています。

 天正13年(1585年)1月30日、イタリアのリヴォルノに到着。同年2月1日にピサに到着しトスカーナ大公国のピサ宮殿でトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見後、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加しました。ピサの斜塔や大聖堂のあるドゥオモ広場を訪れた記録が残っています。ピサではカヴァリエーリ広場のサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教を訪れ聖ステファノ騎士団と会見しています。

 その後、フィレンツェに立ち寄り同年2月22日にローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。このとき天正遣欧少年使節にローマ市民権が与えられました。同年4月2日、グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席しています。

 同年5月6日、天正遣欧少年使節はローマを出発しヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどを訪問しポルトガルに戻りました。天正14年(1586年)2月25日、欧州での目的を果たした一行はリスボンを出港し日本に向けて出港しました。同年4月23日、インドのゴアに到着しここでヴァリニャーノに再会しています。帰路途上に使節を派遣した大村純忠が天正15年(1587年)5月18日に病死、大友宗麟が天正15年5月23日に死去しました。

 同年6月19日、九州を平定した豊臣秀吉は長崎がイエズス会により要塞化され、長崎港からキリスト教信者以外の日本人が奴隷として連れ去られていることを知りキリスト教宣教と南蛮貿易を禁ずる「バテレン追放令」を出しました。「バテレン追放令」により一行は日本に入国できなくなりましたが帰国が許され天正18年(1590年)6月20日) に長崎に到着し帰国しました。

 天正19年(1591年)閏1月8日、天正遣欧少年使節は聚楽第で豊臣秀吉に謁見しました。このときフランスの作曲家ジョスカン・デ・プレの楽曲の演奏を披露しました。秀吉は彼らを高く評価し特に伊藤マンショには仕官を勧められましたがキリスト教司祭になるためこれを断り、その後はイエズス会に入会しキリスト教を学び布教活動を行いました。

 この天正遣欧少年使節の派遣はヨーロッパで日本が広く知られるようになるきっかけを作りました。また印刷技術を学んだ彼らはグーテンベルク印刷機を日本に持ち帰り日本で初めて活版印刷を行いました。この印刷物はキリシタン版と呼ばれました。一方で、豊臣政権、その後に開かれた江戸幕府はキリスト教に厳しい施策を進めるようになります。青年となった4人の前途は多難なものとなりました。

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