(旧)箱館奉行所跡の碑
箱館奉行所というと五稜郭公園内の復元された箱館奉行所が有名ですが、五稜郭が築城される前は現在の基坂(函館市元町公園)にありました。現在、元町公園には復元された奉行所はなく跡地を示す碑が立てられています。
ベリー提督の箱館来航後の安政元年(1854年)6月30日、幕府は日米和親条約で開港された箱館に34年振りに奉行所を再置することにし、松前藩から上知した箱館周辺を箱館奉行所管轄の直轄地としました。
このとき箱館奉行には幕府の勘定吟味役・海防掛の竹内保徳が就任しました。さらに日露和親条約締結のため国境調査のため樺太・蝦夷地を巡見した堀利煕が就任し2人体制となりました。
箱館奉行所は松前藩箱館奉行詰役所に置かれました。
旧箱館奉行所のあった場所は次の地図の左上の御役所と書かれたところです。現在は前述通り「函館市元町公園」の敷地となっています。
冒頭の箱館奉行所跡の碑はこちらの地図の右上(紫のポインタ)にあります(Google Map)
竹内保徳は箱館奉行所の運用にあたり松前藩箱館奉行詰役所の建物の改装を考えていたようですが、堀利煕はこの地は箱館港湾に近く箱館山から一望できることから防衛上の問題があることを指摘しました。竹内保徳はこれを承認し、2人は箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を幕府に提出しました。老中首座の阿部正弘がこれを承認し、こうして五稜郭と箱館奉行所の建設が決まりました。
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