睦仁親王(明治天皇)が践祚(1867年1月9日)
第121代天皇の孝明天皇の第一皇子は孝明天皇の典侍の坊城伸子との間の子の妙香華院でした。坊城伸子は懐妊後に病気にかかり、妙香華院は生まれた当日に母とともに病死しました。孝明天皇の第二皇子は嘉永5年(1852年)9月22日(1852年11月3日)に公家の公家中山忠能の娘で典侍だった中山慶子との間に生まれた祐宮(さちのみや)です。祐宮は光格天皇の幼名と同じであり、孝明天皇は自分の唯一の皇子に期待していました。
しかしながら中山家は天皇の正室になれる五摂家ではなかったため祐宮の皇位継承は確定的なものではありませんでした。また孝明天皇の正室は九条尚忠の娘である九条夙子(英照皇太后)であり正室との間に息子が生まれればその子が天皇を継承するのが筋でした。さらに孝明天皇の父の仁孝天皇は有栖川宮幟仁親王、有栖川宮熾仁親王、伏見宮貞教親王に親王宣下を与えていました。ですから正室に子が生まれなくても祐宮が親王になれなければ3人のうち1人が皇位継承することになります。
祐宮は前例にならって幼少時は母の実家の中川邸で育てられ祖父の中山忠能が父親代わりとなりました。母の中山慶子は宮中にいたため祖母の中山愛子や忠能の母の中山綱子が母親代わりとなりました。公家の中川家は尊皇攘夷派で祐宮は中川家での養育で大きな影響を受けました。
安政3年(1856年) 9月22日に祐宮は4歳となり御所に戻ることになりました。祐宮は同年9月29日から宮中で暮らすようになりましたが中山家に愛着を持っており環境変化に慣れるまで精神的に不安定な状態となりました。祐宮が親王となるためには周囲からの理解も必要です。孝明天皇は祐宮を親王とするべく宮中行事を見せるなど教育をしながら大切に育てました。祐宮もすくすくと育ちました。
万延元年(1860年)7月10日、祐宮は勅命により准后九条夙子の実子として儲君となりました。同年9月22日に8歳を迎え、同年9月28日に親王宣下の儀式が行われ諱は 睦仁(むつひと)としました。その後、睦仁親王は天皇となるためさまざまな教育を受けました。
孝明天皇は幕末に徳川家と公武合体による攘夷をめざし、慶応元年(1865年)9月21日に第14代将軍の徳川家茂の奏上により第二次長州征討
を勅命しました。長州再征は慶応2年(1866年)6月7日に開始されました。同年7月20日、家茂は第二次長州征伐の最中に大阪城で病死し、徳川慶喜が第15代将軍となりました。
孝明天皇は同年12月11日から天然痘を患いました。病は峠を越したかのように見えましたが慶応2年(1866年)12月25日(1867年1月30日)に崩御しました。慶応3年(1867年)1月9日(1867年2月13日)、睦仁親王は14歳で践祚して122代天皇を継承しました。
幕府による第二次長州征伐は失敗に終わり同年1月19日に第二次長州征討の解除を命じる勅命が出されました。禁門の変で長州藩を支持して蟄居させられていた中川忠能や有栖川宮熾仁親王など許しましました。これによって公武合体派の孝明天皇の庇護を受けていた幕府の権威は失墜しました。天皇の権威は高まり倒幕派の長州藩と薩摩藩が台頭するようになりました。やがて戊辰戦争が勃発し日本は混乱の時代を迎えるのです。
【関連記事】
・攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)
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