天明の大火(天明8年 1788年1月30日)
天明8年(1788年)1月30日、京都の宮川町団栗辻子(宮川筋)の空き家から出火しました。当日は風が強く炎は瞬く間に燃え広がりました。洛中との間には鴨川がありましたが強風に煽られて火の粉が対岸に飛び寺町通りに燃え移りました。火災は西へ延焼していき同日夕方には二条城本丸が炎上しました。さらに京都御所、仙洞御所、京都所司代屋敷、東西両奉行所など洛中の重要拠点が焼失し、京都市中の8割以上が焦土となりました。懸命な消火活動により「天明の大火」は発生から2日後の2月2日早朝に鎮火しましたが、京都市中は焼け野原と化しました。 この大きな被害をもたらした火災の原因は放火だったようです。
この火災は「天明の大火」と呼ばれますが、出火元の町名から「団栗焼け」と呼ばれたり干支が申年だったことから「申年の大火」とも呼ばれたりします。京都では「宝永の大火」と「元治のどんどん焼け」の大火が発生しており、「天明の大火」と合わせて「京都の三大大火」と呼ばれます。単に「京都の大火」と言った場合は「天明の大火」を意味します。
この火災によって京都の政治と経済は大打撃を受けました。光格天皇は京都御所が失われたため光格天皇は聖護院を仮御所としました。江戸幕府の老中の松平定信が京都に赴き復興について朝廷と協議を行いました。復興の費用は幕府が負担することになりましたが当時の幕府は財政難で「天明の大飢饉」もあり十分な資金を捻出することは困難でした。しかしながら朝廷は幕府の反対を押し切って御所再建にあたり莫大な費用がかかる古式な建築を採用しました。御所が再建され光格天皇が聖護院から御所に戻ったのは3年後のことです。松平定信は朝廷の要求に応じなくなり幕府と朝廷の間で意見対立が起こる要因となりました。
Google Map、赤い点線で囲まれた部分が宮川筋。北北西に京都御所、西北西に二条城がある。
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