ソビエト社会主義共和国連邦の終焉(1991年12月25日)
1917年、第一次世界大戦中のロシア帝国は敗戦が濃厚となり食糧不足などに陥っていました。戦争を継続しツァーリズム(専制政治)に対する不満が高まり大規模なデモが発生しましたがロシア皇帝がこれを鎮圧したため、兵士たちが職務を放棄して反発したことにより民主革命をめざした二月革命が民主革命が起きました。これによってロマノフ不王朝が崩壊しロシアの臨時政府が成立しました。しかし臨時政府と各都市の革命組織である評議会(ソビエト)が対立するようになると、ウラジミール・レーニン率いるボリシェビキが同年に十月革命を起こし世界初の社会主義国家の建国をめざしました。1918年から赤軍(ソビエト軍)と白軍(反革命勢力)による激しい内戦が勃発し、1921年までに赤軍がロシアから分離独立していたウクライナなどの諸地域を占領し各地にソビエト共和国を樹立しました。1922年12月30日にロシア、ウクライナ、ザカフカース、白ロシア(ベラルーシ)のソビエト共和国が統合されソビエト連邦(以下ソ連)が建国されました。
1924年にレーニンが死去すると党内闘争が起こりましたが、その後の政権を掌握したのがヨシフ・スターリンです。スターリンは独裁政治により徹底的な中央集権化を進めました。第二次世界大戦ではソ連は侵攻してきたドイツ軍を撃退しベルリンを占領しました。戦後、東欧の旧枢軸国ではソ連主導の政府となりソ連はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となりました。
しかしながらアメリカ合衆国を中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の間で対立が起き冷戦時代が幕を開けました。アメリカ合衆国とソ連の間で戦争は起こりませんでしたが軍事力拡大、核開発、宇宙開発などでしのぎを削り合いました。1962年にはキューバ危機が起こり両国間の緊張が高まりましたがアメリカ合衆国による軍事力を背景とした外交交渉により戦争には至りませんでした。
冷戦時代は長らく続きましたが1980年代の終わり東欧諸国の改革が進みソ連の基盤が崩れはじました。1989年11月9日に象徴的なベルリンの壁が崩壊される事件が起こりました。この事件は世界中で報道されました。
ソ連の終焉に危機感が募ると当時のソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進し、社会主義体制の改革を試みました。しかしながらソ連の民族問題が深刻化しバルト三国や中東欧諸国は民主化を求めて独立を要求するようになり、ソ連はもはや国家として継続することが困難となりました。1991年8月にはソ連共産党保守派と軍部がゴルバチョフを打倒しクーデターを起こしましたが。くーデーターは失敗に終わりましたがゴルバチョフは影響力を失い多くの共和国が独立しました。
1991年9月、バルト三国の分離独立が認められると同年12月8日にロシアのボリス・エリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ議長はそれぞれの独立を認め合い独立国家共同体(CIS)を創設するベロヴェーシ合意に調印しました。12月16日、カザフスタンがソ連から脱退、12月21日、バルト三国とグルジアを除く旧ソ連の諸国がアルマアタ議定書に調印しCISに加盟しました。
そして1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し全ての権限をエリツィンに譲りました。これによってエリツィンがロシア連邦の初代大統領となり、同日夜にクレムリンからソ連国旗が降ろされました。こうして1922年から1991年まで続いた20世紀を代表する国家の一つだったソビエト社会主義共和国連邦が終焉したのです。
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