英国公使館焼き討ち事件(1862年12月12日)
1858年の日英修好通商条約が締結により江戸高輪の東禅寺にイギリス公使館が設置され初代駐日総領事ラザフォード・オールコックが赴任しました。当時、尊皇攘夷運動が過激化し武力により外国人を排斥する事件が多発していました。東禅寺のイギリス公使館も攘夷の対象となり、水戸藩脱藩の攘夷派浪士たちが同年5月28日午前10時頃にイギリス公使館を襲撃する東禅寺事件を起こしました。
この事件の後、オールコックはイギリス公使館を横浜に移動しました。安政五カ国条約を締結した幕府は国内の経済や政治の状況から各国に対して約束の期日の延期を求めるため文久遣欧使節を派遣することにしました。オールコックは文久遣欧使節に協力するため文久2年2月に離日しました。
【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)
オールコックが留守中に代理公使を務めたエドワード・セント・ジョン・ニールはイギリス公使館を横浜から高輪東禅寺に戻しましたが、同年5月29日に警備を担当した藩士の攘夷派の志士がニール代理公使の殺害しようとしましたがイギリス兵に発見され失敗しました。これを第二次東禅寺事件といいます。
【参考】第二次東禅寺事件(1862年5月29日)
幕府に協力をしてきたイギリスはこれらの事件について厳重に抗議しました。同年8月21日(1862年9月12日)には薩摩藩がイギリス人を殺傷する生麦事件を起こしたこともあり幕府の立場はさらに悪くなりました。交渉の結果、幕府はイギリスに賠償金を支払い、品川の御殿山にイギリス公使館を建設することになりました。新しいイギリス公使館は同年12月ほぼ完成しました。
この頃、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らは江戸や京都において尊皇攘夷運動を展開していました。薩摩藩が生麦事件で攘夷を果たしているのに対し未だに公武合体を説いている長州藩に不満を持っていた晋作は同士とともに武州金澤(金沢八景)で外国人公使を攘夷する計画を立てました。しかしながらこの無謀な計画は長州藩主に伝わり晋作は謹慎を命じられました。
晋作はその後も尊皇攘夷運動を諦めることはありませんでした。文久2年11月、朝廷から攘夷断行の勅使が幕府を訪れると晋作らは横浜を襲撃する計画を立てました。これも長州藩主に説得され中止となりました。晋作、玄瑞は尊皇攘夷結社「御楯組」(みたてぐみ)を結成し、秘密裏に攘夷の機会をうかがいました。そして勅使が江戸を離れたことを見計らって文久2年12月12日(1863年1月31日)、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちする「英国公使館焼き討ち事件」を起こしました。これによりイギリス公使館は全焼してしまいました。オールコックは江戸は政情不安と考え、イギリス公使館を横浜で再建することにしました。
なおこの事件は高杉晋作が首謀したものですが公式には犯人は発覚しておらず幕府も事件を追及することはありませんでした。
【関連記事】
・文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)
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