松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)
徳川家康は岡崎城主松平広忠の嫡男として天文11年(1542年)12月26日に生まれました。母は緒川城主水野忠政の娘の大子(於大の方、伝通院)です。幼名は竹千代で幼少期は人質として織田家に預けられました。広忠が死去すると義元は松平家が支配していた西三河地域を今川家の所領とするため織田家に人質として取られていた広忠の嫡男の竹千代を取り戻すことにしました。義元は人質としていた織田信秀の庶長子の織田信広との人質交換により竹千代を自分の人質としました。竹千代は駿府城に送られ岡崎城には今川家臣が城代となりました。竹千代は松平家の家督を継承しましたが岡崎城には入れず今川家で過ごしました。
竹千代は天文24年(1555年)3月に14歳で今川家し今川義元より偏諱「元」の字を受けて次郎三郎元信と名乗り、以降は義元の配下となりました。その後、義元の姪とされる築山殿を正室としたことから今川一門に準ずる家臣となりました。弘治4年(1558年)頃に祖父の松平清康の名の一字「康」をとり元康と改めました。
永禄3年(1560年)5月、義元は尾張侵攻を開始します。このとき元康が上洛の途上で織田信長討伐に向かったという説がありますが義元が上洛のための外交工作をしていた形跡がないことから尾張侵攻は織田家を滅ぼして所領を広げるのが目的だったと考えられます。松平元康は尾張侵攻の先鋒を任され今川方の大高城に兵糧を運び込むことを命じられました。大高城は織田軍に取り囲まれていましたが元康は5月18日に織田方の鷲津砦と丸根砦の間を突破し兵糧を届けました。5月19日に元康の軍は丸根の砦を攻め落とすことに成功、鷲津砦も今川家臣の朝比奈泰朝によって攻め落とされました。
窮地に立たされた織田信長は自らが出陣し5月19日昼に桶狭間において今川義元を急襲し討ち取ることに成功しました。織田家臣の水野信元は大高城を守っていた甥の元康に使者を送り義元の戦死と織田軍の来襲に備えて退去するよう伝えました。元康は間者を出して今川軍が「桶狭間の戦」で敗れたことを確認したのちに大高城から退去しました。そして今川軍が退去した岡崎城に23日に入城しました。
桶狭間の戦いの後、元康は三河の今川軍を率いて織田軍と対峙していました。しかし今川氏真が元康の支援を後回しにて長尾景虎(上杉謙信)と対峙する武田信玄と北条氏康の支援を優先したため織田家と和睦して独立することを考えるようになりました。永禄4年(1561年)、元康は伯父の水野信元の仲介で信長と「清洲同盟」を結び今川氏と断交しました。
永禄6年(1563年)7月6日、元康は今川義元の「元」の字を捨て諱を家康と改め花押を変更しました。家康は今川家との決別を明確にしたものです。家康が「家」の字を選んだのは平安時代に活躍した武士の源義家を尊敬していたからという説、生母の於大の方の再婚相手の久松長家から偏諱を得たという説がありますが定かではありません。
永禄7年(1564年)、今川氏真が家康討伐を表明すると三河一向一揆などが勃発しました。元康は抵抗勢力を鎮圧し永禄9年(1566年)までに東三河・奥三河を平定し三河国を統一しました。そして永禄9年(1566年)12月29日、松平家康は正親町天皇の勅許を得て姓を徳川に改名し徳川家康を名乗り従五位下三河守に叙任されました。
松平家は清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏を自称していましたが、正親町天皇は世良田源氏の三河守任官は前例がないとして叙任を認めませんでした。家康は三河国出身の京誓願寺住持だった泰翁を通じて近衛前久に相談しました。前久は清和源氏新田氏の一族で源氏から藤原氏支流へ分流した得川氏が存在することに目を付け、得川氏の末裔として徳川へ「の改姓と藤原氏への本姓変更により従五位下三河守に叙任されるよう話を進めました。 この勅許により徳川姓を名乗のったのは家康のみでした。家康は徳川姓を松平氏一族や家臣の統制に利用しました。関ヶ原の戦いの勝利後、徳川家康は征夷大将軍に就任するにあたり吉良家の系図を利用し徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族とし本姓を藤原氏から源氏に戻しています。
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