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2024年12月23日 (月)

日蘭和親条約締結(1855年12月23日)

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 日本が西洋との関係を断ち切ったのは天正15年(1587年)に豊臣秀吉が出したバテレン追放令に始まります。こによってカトリック教の布教活動が禁じられスペインやポルトガルの宣教師の国外追放となり南蛮貿易が禁じられました。江戸幕府を開いた徳川家康もスペインやポルトガルの来航と日本人の海外渡航を禁じ、外交は長崎でのオランダと清国の通商国、朝鮮と琉球の通信国に制限しました。家康がオランダとの外交を認めたのはオランダがプロテスタント国家で布教活動より貿易を目的としていたからです。

 アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督の艦隊による黒船来航により江戸幕府は嘉永7年(1854年)3月3日に日米和親条約を締結しました。江戸幕府は同年8月23日にイギリスと日英和親条約を締結、安政元年(1854)12月21日に日露和親条約を締結しました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

 【参考】日英和親条約の調印(1854年8月23日)

 江戸幕府は上述の通りオランダとは古くから外交をしてきましたが日蘭和親条約が締結されたのは安政2年(1855年)12月23日です。条約締結の調印はオランダ商館長(カピタン)で駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウスが行いました。日蘭和親条約の締結が他の列強に比べて遅い理由は、オランダと日本の間では従来から親密な関係で新たな条約締結の緊急性が低かったからです。列強と条約を結びオランダとも外交の明文化をする必要があり条約締結に至りました。

オランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウス
オランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウス

 この条約締結によりオランダはオランダは通信国となり、オランダ商館が置かれていた長崎の出島に行動範囲が限られていたオランダ人が長崎市街に出入りすることができるようになりました。クルティウスは日蘭和親条約の条文に長崎と函館での貿易を許可する条項を加えることを江戸幕府と交渉し安政4年(1857年)8月29日に調印しています。この追加条文によってオランダ以外の商人たちの貿易も認められました。日米修好通商条約が締結されたのは安政5年(1858年)6月19日です。

【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

【関連記事】

日仏修好通商条約の調印(1858年9月3日)

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