大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)
方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川の江戸幕府が豊臣家の大阪城を攻めた大阪の陣は 慶長19年(1614年)11月19日に「木津川口の戦い」を皮切りに開戦しました。
【参考】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)
この戦は「大阪冬の陣」として知られています。「大阪冬の陣」では真田信繁(幸村)が真田丸を築いて奮戦し徳川軍を翻弄しましたが、徳川軍はカルバリン砲、セーカー砲、半カノン砲などの長距離砲の大筒で大阪城への攻撃を開始しました。難攻不落と言われた大阪城も砲撃を受けて無残な姿となりました。
真冬の戦いであったことと豊臣家の兵糧買い占めにより徳川軍では兵糧不足が生じていました。そこで徳川家康は同年12月より織田有楽斎を通じで豊臣家と和議を結ぶ交渉を始めました。豊臣家も籠城により兵糧と弾薬が不足していたため和議に応じるしかありませんでした。交渉は条件の折り合いで難航しましたが徳川軍の砲撃が大阪城本丸を直撃し淀殿の侍女8名が死亡したことにより、淀殿は16日に和議に応じることを決めました。豊臣家は朝廷に働きかけ、朝廷から後陽成上皇の命による徳川家康に対する和議が勧告されまたが、家康はこれを拒否して徳川幕府主導での交渉を進めました。
徳川幕府と豊臣家の交渉は徳川軍の京極忠高の陣で18日から始まりました。幕府からは家康側近の本多正純と家康側室の阿茶局、豊臣家からは淀殿の妹で忠高の義母の常高院との間で交渉が行われ翌19日に講和条件が整いました。20日に誓書が交換され和議が成立しました。和議の条件として、本丸を残して二の丸と三の丸は破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと、秀頼の身の安全と本領の安堵、城中諸士に対しての不問、秀頼と淀君の関東下向無用が決められました。
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