吉田松陰が松下村塾で教育を開始(1857年11月5日)
「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。
「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は幕末に長州藩の松本村(山口県萩市)に存在した私塾です。天保3年(1842年)に長州藩士の吉田松陰の叔父の玉木文之進によって開かれ、松陰も幼少の頃よりここで学びました。塾長は松陰の母方の叔父の久保五郎左衛門が務めました。
長州藩には公式な教育機関として「明倫館」がありましたが、武士の身分しか入学できませんでした。これに対して「松下村塾」には身分に関係なく塾生として入学することができました。松陰は極めて優秀で9歳で「明倫館」の兵学師範となり、長州藩主の毛利敬親にも高く評価され重用され教育の機会が与えられました。「明倫館」では山縣有朋、桂小五郎(木戸孝允)が松陰から学んでいます。
やがて松陰は西洋兵学の必要性を重視するようになり、嘉永3年(1860年)に江戸に遊学し佐久間象山などから西洋兵学を学びました。嘉永5年(1862年)、肥後藩の宮部鼎蔵らと東北の見学旅行を計画し、長州藩の通行手形が発行される前に出発する必要があることから脱藩を決意しました。水戸、会津、津軽、米沢などを訪れ見聞を広め江戸に戻りましたが長州藩から士籍剥奪ならびに世禄没収の処分を受けました。
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーの艦隊が浦賀に来航すると、松陰は師の象山と蒸気船の黒船を遠くから観察し西洋の先進的な文明に強い印象を受けました。その後、象山の勧めで外国留学を決意しました。
当時、幕府は外国渡航を禁止していたため密航するしかありませんでした。ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる艦隊が日露和親条約の締結交渉のため長崎に来航したときに、松陰は同郷の金子重之輔とともにプチャーチンの軍艦に乗り込む計画を立てましたが艦隊は既に出港しており目的を果たせませんでした。
【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)
嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために浦賀に再来航しました。交渉成立後、松陰は重之輔と漁民の小舟で下田港沖に停泊していた旗艦ポーハタン号に近づき乗船し外国渡航を願い出ました。しかし、ペリーは日米和親条約を結んだばかりで幕府の意に反する手助けはできないと渡航を拒否し2人を追い返しました。下田奉行に自首した2人は投獄されましたが死罪は免れました。その後、長州藩に送り届けられ引き続き囚われの身となりました。
【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)
安政2年(1855年)、松陰は出獄しましたが、自由の身になるこは許されず実家の杉家で幽閉処分とされました。幽閉中の安政3年8月22日(1856年9月20日)、杉家において師弟に兵学を教え武士とはいかにあるべきかの講義を始めました。安政4年(1857年)11月5日、杉家の敷地に8畳間の塾舎が完成すると「松下村塾」を引き継ぎ塾生に対する教育を開始しました。
松下村塾(山口県萩市椿東1537)
安政5年(1858年)7月20日、松陰は長州藩主より山鹿流兵学の教授を正式に許可されましたが、同年12月井伊直弼による「安政の大獄」で投獄されるまで教育を続けました。この「松下村塾」において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎など幕末の倒幕や明治維新の新政府で活躍した志士たちが松陰から学びました。
松陰の投獄後、幕政が混乱し尊皇攘夷運動と倒幕運動が盛んになると塾生の多くがこれに参加したため「松下村塾」は中断しました。「松下村塾」が再開したのは慶応2年(1866年)で明治4年(1871年)に玉木文之進が塾頭となり塾を杉家から自宅に移しました。
明治9年(1876年)に起きた旧長州藩の士族が起こした「萩の乱」において前原一誠を始めとする元塾生が多数が参加し反乱罪で処罰されたため、玉木文之進は責任を取り切腹したことで「松下村塾」は閉鎖しました。松陰の実兄の杉民治が明治13年(1880年)に「松下村塾」を再興し、明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで教育を行いました。
【参考】「萩の乱」殉国軍が挙兵(1876年10月28日)|明治政府に対する士族の反乱
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