大黒屋光太夫がロシア女帝エカテリーナ2世の茶会に招待される|紅茶の日(11月1日)
11月1日は「紅茶の日」です。「紅茶の日」というと英国での出来事に由来しているように思われるかもしれませんが、日本人とロシアとの関係に由来しています。
江戸時代後期の天明2年(1783年)12月、伊勢国奄芸郡白子(三重県鈴鹿市)の百姓彦兵衛の回船「神昌丸」船頭の大黒屋光太夫ら17名は紀州藩の囲米を神昌丸に積み江戸に向けて出港しました。ところが「神昌丸」は駿河沖で暴風雨で遭難しました。約7ヶ月の漂流を経て「神昌丸」はアリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着しました。
天明5年(1786年)にロシア船が救出に来ましたが接岸に失敗し大破してしまいました。光太夫は大破した船の材料を使って船を作り天明7年(1787年)7月にアムトチカ島を出航しました。同年8月2日、光太夫らはカムチャッカ到着しオホーツク、ヤクーツクを経て寛政元年(1788年)2月9日にイルクーツク到着しました。光太夫は総督府に帰国願を出しましたがロシアで士官すること求められ帰国は認められませんでした。
光太夫らの帰国のきっかけを作ったのはイルクーツクで出会った植物学者キリル・ラクスマンでした。日本に興味をもっていたキリルは寛政3年(1791)1月に光太夫らを伴い首都サンクトペテルブルクに赴きました。キリルの協力により光太夫らはロシア皇帝離宮があるるツァールスコエ・セローを訪れ同年5月28日(異説に6月28日)に女帝エカテリーナ2世アレクセーエヴナに謁見しました。光太夫が帰国を願うと、エカテリーナ2世は光太夫の境遇を気の毒に思い帰国を了承しました。当時、ロシアは日本との通商条約を模索しており、光太夫から日本の商業に関する情報を聴取しています。こうして光太夫らはロシア船で日本に送り届けられることになりました。
「神昌丸」乗組員17名のうち1名はアムチトカ島漂着前に死亡しました。漂着後に11名が死亡し2名はロシア正教の洗礼を受けロシアに帰化、光太夫、磯吉、小市の3名が日本に帰国することになりました。寛政3年(1791年)10月20日(1791年11月4日)、エカテリーナ2世は光太夫らを宮中に招きました。光太夫らはエカテリーナ2世から煙草入れを賜り、茶会に参列し紅茶を嗜んだと伝えられています。
昭和53年(1983年)に日本紅茶協会は、1791年11月に日本人が初めて外国で執り行われた公式の茶会で本格的な紅茶を飲んだという史実に基づき11月1日を「紅茶の日」と定めました。
寛政4年(1792年)9月5日(1792年10月20日)、光太夫、磯吉、小市と遣日使節となったキリルの次男アダム・キリロヴィチ・ラクスマンは「エカテリーナ号」で根室に到着しました。光太夫、磯吉、小市は約10年ぶりに日本の地を踏みましたが到着後に最年長の小市が死去し、江戸に生還できたのは光太夫と磯吉の2人になりました。
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