ベルリンの壁崩壊の日(1989年11月9日)
第二次世界大戦でドイツが無条件降伏により戦闘行為を停止したのは1945年5月8日です。同日にベルリンで批准手続きが始まり翌日9日夜に降伏文書に調印が行われました。同年7月にベルリン郊外ポツダムで連合国によるドイツの占領改革が合意され、ドイツはイギリス、アメリカ合衆国、フランス、ソビエト連邦で分割占領されることになりました。ベルリンもそれぞれの管理区域に分割されました。
1948年6月24日、西側の連合国と対立を深めたソ連が陸路封鎖による「ベルリン封鎖」を行いました。これに対してイギリスとアメリカ合衆国は「ベルリン大空輸」で対抗しました。ソ連は1949年5月12日に「ベルリン封鎖」を解除しましたが、この対立によりドイツは社会主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)と自由主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)に分断されました。ベルリンもソ連の管理区域の東ベルリンと西側連合国の管理区域の西ベルリンに分割されましたがベルリンは東ドイツ国内に存在するため西ベルリンは飛び地のようになりました。
東西諸国の冷戦時代に入ると東ベルリンの市民が西ベルリンに流出するようになりました。ソ連と東ドイツは1961年8月13日に西ベルリンを包囲し東西ベルリンの境界線を遮断するように有刺鉄線を張り巡らせました。まもなく有刺鉄線の代わりに「ベルリンの壁」が建設され、東西ベルリン間の通行は完全に不可能となりました。これにより多くのドイツ人の家族や友人が分断されることになり「ベルリンの壁」を乗り越えて越境した市民の多くが射殺されました。
長らく続いた冷戦時代も1980年代の終わりに東欧諸国の改革が進みソビエト連邦が崩壊への道を歩み始めたことで終焉に向かい始めました。東ドイツでは市民の出国が止まらず、東ドイツ政府はこれに歯止めをかけるため1989年11月9日夕方に自国民の西側への旅行の規制緩和を公表しました。このとき東ドイツの政府要人が即刻ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認めると発言したため多くの東ベルリン市民が「ベルリンの壁」の前に集まりました。混乱を避けるため国境検問所が同日夜に通過を認めると市民が「ベルリンの壁」に殺到し、多くの市民が「ベルリンの壁」を崩壊して乗り越えたことが世界中で報道されました。
「ベルリンの壁」の崩壊は東ドイツの崩壊のきっかけとなりました。なおソビエト連邦は1991年12月25日に崩壊しロシア連邦となりました。ソ連の崩壊によって冷戦状態は終焉しました。
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