高橋是清が内閣総理大臣に就任(1921年11月13日)
大正10年(1921年)11月4日、内閣総理大臣の原敬は翌日に京都で開催される立憲政友会近畿大会へ出席するため東京駅に赴きました。駅長室に立ち寄った後に東京駅乗車口(丸の内南口)へ向かうところで原首相に批判的だった国鉄職員に暗殺されました。11月5日、原内閣は外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を兼任して内閣総辞職を行いました。
原首相の後継を決めるため元老会議が開かれ総理大臣経験者の山縣有朋、松方正義、西園寺公望の元老が内閣総理大臣の選定を行いました。会議では加藤友三郎海軍大臣の名前があがりました。しかし、与党は立憲政友会であり、内閣総理大臣の暗殺によって総理大臣が与党以外の者になることは避けるべきという考えから新しい総理大臣は立憲政友会の有力議員から選ぶべきとの結論に達しました。検討の結果、日露戦争の際に外債公募を成功させ財政政策の手腕が高く評価されていた高橋是清大蔵大臣を内閣総理大臣に選任することが決まりました。
大正10年(1921年)11月13日、高橋是清は内閣総理大臣に就任し憲政友会の総裁となりました。原内閣の閣僚は全員選任され大蔵大臣は高橋是清総理大臣が兼任しました。また立。立憲政友会は結党時から原敬が中心人物として統制していました。高橋是清が総理大臣と総裁に就任した時点では、立憲政友会は一致団結して内閣を支えることになりました。しかし、高橋是清は総裁として原敬ほど人望が高くなかったため立憲政友会を立て直すことができず次第に統制が取れなくなりました。まもなく閣内不一致が生じたことで高橋是清内閣はわずか半年で内閣総辞職となり短命に終わりました。元老会議は野党第一党の憲政会の台頭を避けるため後継の総理大臣に加藤友三郎海軍大臣を選任、大正11年(1922年)6月12日、加藤友三郎内閣が発足しました。
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