一橋徳川家を創設(1740年11月18日)
御三卿とは
徳川家も第8代将軍の徳川吉宗の時代になると徳川宗家と御三家の血縁関係が薄れていました。また吉宗は嫡男の家重が将軍として不適格と考えていたため兄弟を養子に出さず徳川姓を名乗らせておきたいと考えました。しかし、経済的な理由により新たな大名とすることは不可能だったため、吉宗は次男の宗武と四男の宗尹に江戸城内に屋敷を与えて徳川姓を名乗らせました。
宗武は享保16年(1731年)1月27日に江戸城田安門内に屋敷を与えられ田安徳川家の家祖となり、宗尹は元文5年(1740年)11月18日に江戸城一橋門内に屋敷を与えられ一橋徳川家の家祖となりました。田安徳川家と一橋徳川家の両家は「御両卿」(ごりょうきょう)と呼ばれました。
江戸幕府では第9代将軍として宗武を擁立する動きがありました。しかし、吉宗は第3代将軍の家光と駿河大納言の忠長の兄弟の確執の騒動を鑑み、また家重の嫡男の家治が優秀だったこともあり、家重を第9代将軍として自らは隠居しました。
宝暦8年(1758年)12月2日、家重は「御両卿」に加えて次男の重好に江戸城内清水門内に屋敷を与え清水徳川家の家祖としました。これによって田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家は「御三卿」と呼ばれるようになりました。「御三卿」は江戸幕府が屋敷や家臣を与えており大名のように独立した存在ではなく将軍家の身内の「部屋住み」という位置づけでした。「御三卿」は将軍家に後継者を提供したり、御三家をはじめとする大名家へ養子を提供したりする役割を持ちました。
一橋徳川家
徳川宗尹は享保20年(1735年)の元服の際に徳川を名乗ることを許され元文2年(1737年)に合力米2万俵を与えられ、元文5年(1740年)に江戸城一橋門内に屋敷を与えられ合力米3万俵となりなりました。宗尹の屋敷が一橋屋形と呼ばれたことから一橋家または一橋徳川家と呼ばれるようになりました。享三年(1747年)9月15日には武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨に10万石の封地を与えられました。
最後の将軍となった第15代将軍の徳川慶喜は御三家の水戸藩から一橋徳川家に養子に入りました。慶喜が将軍になると一橋徳川家は尾張徳川家の当主を一時的に務め隠居していた徳川茂栄が家督を相続しました。鳥羽・伏見の戦いの後、茂栄は東征大総督府に慶喜や徳川一門に対する寛大な処分を嘆願しました。江戸城無血開城後、明治政府は一橋徳川家を徳川宗家から独立させ茂栄を10万石の一橋藩の藩主としました。その後は廃藩を経て伯爵家となりました。
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