日本海軍空母機動部隊が択捉島単冠湾から出港(1941年11月26日)
昭和16年(1941年)12月8日午前3時19分(ハワイ・アリューシャン標準時12月7日午前7時49分)、日本軍の聯合艦隊機動部隊が米国ハワイ州オアフ島の真珠湾海軍基地を奇襲攻撃し太平洋戦争(大東亜戦争対米英戦)が開戦しました。
日本が昭和16年(1941年)12月8日を開戦予定日として太平洋戦争の準備を本格化したのは同年11月です。同年11月1日に大本営政府連絡会議で決定された帝国国策遂行要領は同年11月5日に御前会議で承認されました。
真珠湾攻撃に日本海軍空母機動部隊の旗艦として参戦した航空母艦「赤城」以下24隻の艦船は大分県の佐伯湾で演習を行っていました。同年11月17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官が視察のため「赤城」を訪れました。
山本五十六長官は「この作戦の成否はその後のわがすべての作戦の運命を決する」と真珠湾攻撃の重要性を述べ機動部隊を激励しました。機動部隊の艦船はその後の艦隊として行動を秘匿するため翌日18日早朝から時間をずらしながら佐伯湾を出港しました。旗艦「赤城」は同日午前9時に出港しています。機動部隊の艦船が向かったのは真珠湾攻撃に向けて機動部隊艦隊が集結する千島列島の択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)でした。集結場所が択捉島となったのは奇襲攻撃のため艦隊の行動を察知されないためです。連合艦隊参謀本部は太平洋横断の航路を調査し、この時期に北緯40度以北を航行した船舶がないことを突き止め北回りの航路で真珠湾に向かうことにしたのです。
同年11月22日、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将が率いるの旗艦「赤城」以下、「加賀」「飛龍」「蒼龍」「翔鶴」「瑞鶴」をじめとする機動部隊が幅約10キロメートルの単冠湾に集結しました。旗艦「赤城」の甲板に搭乗員が集合し、南雲が米国太平洋艦隊を攻撃することを告げ、同年11月26日午前8時に機動部隊は真珠湾に向けて出港しました。なお潜水艦は佐伯湾からハワイに向かっています。
同日、日本は米国のゴーデル・ハル国務長官から通称「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒を受け取り米国との戦争は不可避となっていました。
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