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2024年11月 4日 (月)

プチャーチンのディアナ号が大破|安政東海地震(1854年11月4日)

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 幕末の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)午前9時30分頃、東海地域で大きな地震が発生しました。この地震は「安政東海地震」と呼ばれています。当時「寅の大変」とも呼ばれたこの地震は駿河湾岸沿いの被害が大きく付近では震度7の揺れが発生したと推定され、関東地方から近畿地方にかけて被害が及びました。この地震が発生したとき下田港にはロシア軍艦ディアナ号が入港していました。ディアナ号は1853年に建造されたロシア海軍のフリゲート帆船です。

 嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、ロシア海軍のプチャーチン極東艦隊指令官が日露和親条約締結の交渉のためパルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航しました。

エフィム・プチャーチン
エフィム・プチャーチン

 このときイギリス海軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を派遣したためプチャーチンは嘉永6年10月23日(1853年11月23日)に長崎を出港し上海に向かいました。プチャーチンが再び長崎に来航したのは嘉永6年12月5日(1854年1月3日)です。日本が他国と通商条約を結んだときに日露和親条約を締結することを約束し離日しました。

【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

 その後、プチャーチンは旗艦を老朽化したパルラダ号からディアナ号に変更しました。嘉永7年8月30日、プチャーチンはディアナ号で再び来日し箱館港に入港しました。しかし箱館での交渉は拒否されたため大阪に向かいました。大阪奉行に下田へ回航するように要請されたため、嘉永7年10月14日(1854年10月21日)に下田港に入港しました。

 プチャーチンは幕府と日露和親条約の締結の交渉を開始しましたが嘉永7年11月4日(1854年12月23日)午前9時30分頃に安政東海地震が発生しました。下田一帯は大きく揺れ、地震発生15~20分後に津波が到来しました。高さ5~6メートルの津波が下田を襲い家屋が流されました。混乱の中、ディアナ号は波にさらわれた日本人を救助し船医が看護しました。しかし、ディアナ号は下田港で発生した渦に巻き込まれて回転し沈没は避けられたものの大破しました。プチャーチンは津波が収まるのを待ってディアナ号を修理のため戸田港へ回航しましたが、強い暴風雨に遭い11月27日(1855年1月15日)午後8時頃、田子の浦沖で座礁しました。救出に向かった漁船にけん引されましたが12月2日(1855年1月19日)午後2時頃に宮島村(現:富士市)沖で沈没したと伝えられています。

津波で大破し戸田港へ向けて曳航されるディアナ号
津波で大破し戸田港へ向けて曳航されるディアナ号

 プチャーチンは幕府の許可を得てディアナ号の船員が帰国できるよう伊豆国君沢郡戸田村で洋式帆船の建造を開始しました。ロシア人の指導のもと日本人船大工が建造したことで幕府は洋式帆船の造船技術を学ぶことができました。

 嘉永7年11月13日(1855年1月1日)、日露和親条約締結の交渉が再開され安政元年12月21日(1855年2月7日)に条約が締結されました。洋式帆船が完成したのは安政2年3月10日(1855年4月26日)です。プチャーチンは戸田村の人々に感謝しこの船を「ヘダ号」と命名しました。

 幕府は「ヘダ号」を原型とする洋式帆船の製造を開始しこれを君沢形と名付けました。幕府は開港によろ海防の必要性が高まっていた箱館に君沢形洋式帆船を2隻配備し箱館奉行に追加の同型船建造を認めました。しかし君沢形の配備までに時間がかかるため箱館奉行は独自に洋式帆船を建造することにしました。完成した洋式帆船は「箱館丸」と名付けられました。

【参考】箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」

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