新島襄が同志社英学校(同志社大学)を創設(1875年11月29日)
新島襄は万延元年(1860年)11月に築地の軍艦操練所に入学し航海術まどを学びました。文久2年(1862年)9月には戊辰戦争で旧幕府軍の軍艦「回天丸」の艦長を務めた甲賀源吾のもとで西洋兵学や測量術などを学びました。学習を進めるうちに「聯邦志略(れんぽうしりゃく)」(Bridgman, E. C.著、箕作 阮甫 翻訳の)を読みアメリカ合衆国が大統領制により国の代表を決めていることを知り驚愕しました。またアメリカ人宣教師が翻訳した「漢訳聖書」を読みアメリカ合衆国に渡航することを決意しました。
当時、江戸幕府は安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約により諸外国との貿易を開始していましたが、外国への渡航が認められたのは外交や貿易を目的とした一部の人だけに限られており、一般人の渡航は認められていませんでした。そのため新島襄がアメリカ合衆国に赴くためには密航するしかありませんでした。
元治元年(1864年)、新島襄は自身が乗船していた備中松山藩の洋式船「快風丸」で開港されていた箱館に向かいました。箱館に潜伏し密航の機会をうかがっていた新島襄はロシア領事館付司祭ニコライ・カサートキンと出会いました。ニコライは聖書に興味をもっていた新島襄に自分の弟子になるよう提案しましたが、新島襄のアメリカ行きの決意は変わりませんでした。ニコライは新島襄の熱意に応え沢辺琢磨や福士卯之吉と密航に協力しました。
同年6月14日、新島襄は箱館港から米国船ベルリン号で密かに出国しました。このとき新島襄は髷を切り落としています。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えてアメリカ合衆国へ向かいました。当時、新島襄は幼名の七五三太(しめた)と元服名の敬幹(けいかん)を名乗っていましたが、航海中に船長ホレイス・S・テイラーからJoe(ジョー)と呼ばれるようになったことから帰国後に新島襄と名を改めました。
ワイルド・ローヴァー号がアメリカ合衆国のボストンに到着したのは慶応元年(1865年)7月20日です。上陸には身元引受人が必要だったため新島襄は下船することができませんでした。テイラー船長の協力でワイルド・ローヴァー号のオーナーのアルフィーアス・ハーディー夫妻が新島襄の身元引受人となることになりました。新島襄は3ヶ月後に憧れのアメリカ合衆国の地を踏み、1865年10月30日にハーディーが理事を務めるフィリップス・アカデミーに入学しました。翌年、新島襄は教会で洗礼を受け、1867年6月に学校を卒業しました。その後、名門のアーモスト大学に入学しました。この大学で後に札幌農学校に赴任するウィリアム・スミス・クラークの化学の授業を受講していますが、クラークの来日は新島襄の紹介によるものです。明治3年(1870年)、新島襄は大学を卒業し日本人として初めて学士の学位を取得しました。大学卒業後はアンドヴァー神学校に入学しました。
新島襄がアメリカ合衆国に密航している間に日本では徳川幕府が終焉、戊辰戦争も終結して新しい時代を迎えていました。もはや密航を隠す必要もなくなり、新島襄は明治4年(1871年)にワシントン駐在外交官の森有礼に面会し日本からの正式な留学生として認められ留学免許状とパスポートを取得しました。
明治5年(1872年)、新島襄はアメリカ合衆国を訪問した岩倉使節団と会見しました。このとき使節団に同行していた木戸孝允(桂小五郎)は新島襄の英語力を高く評価し自分の通訳として使節団の一員としました。新島襄は使節団とともにヨーロッパに渡り、ベルリンで使節団の報告書「理事功程」を編纂しました。新島襄は明治政府が進める欧米方式の教育制度に深く関わるようになりました。
明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業した新島襄は米国の海外伝道組織アメリカン・ボードから日本での宣教の意思を確認されると了承し翌明治8年(1875年)に宣教師の資格を取得し日本伝道通信員となりました。同年10月に開催されたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会において日本におけるキリスト教の大学の設立を主張し5,000ドルの寄付を得ました。
同年10月31日、新島襄はサンフランシスコをコロラド号で出港し同年10月26日に横浜に到着しました。新島襄は日本でも有名になっており好意的に迎えられました。明治8年(1875年)1月、新島襄は岩倉使節団で交流を深めた木戸孝允の協力でキリスト教大学を大阪に設立する計画を立てましたが府知事によるキリスト教反対により実現しませんでした。そこで新島襄は京都府知事と京都府顧問の山本覚馬にキリスト教大学の設立の協力を求めました。新島襄は山本覚馬とともに京都府知事に「私塾開業願」を提出し同年9月に認可を受け同年11月29日に同志社英学校を設立しました。西洋の文化が広がる中で同志社英学校の入学志願者は年々増加していき後の同志社大学の礎となりました。
明治9年(1876年)1月、新島襄は同志社英学校設立の縁で山本覚馬の妹と結婚しました。この妹は幕末に会津藩で砲術家として男装し鶴ケ城籠城戦でスペンサーで奮戦した旧姓山本八重でした。
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